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Essay

お猪口、ドラゴンボールのように

 竹脇さんより、お猪口をひとつ頂いた。竹脇さんはヘアメイクで、同じチームで頻繁に仕事をしていて業界の先輩でもある。100パーセントの関西人のはずなのだが、あまり関西弁を効かせている印象はない。
 なんでも、徳利付きのお猪口を買ったら、予想外、徳利ひとつにお猪口が六つ届いたのだという。さすがに6人が家で同時に盃を交わす機会もないだろうということで、そのうちのひとつを譲って頂いた。うちには今コーヒーカップと、グラスしかなかったので、晴れて三つ目の器となった。そういえばグラスも頂き物だ。
 写真にしてみると、その造形の美しさを改めて思う。お猪口という名称は、直という言葉が転じたという説もあるようで、飾り気がないことや安直を表す。その通り、なんと飾り気がないのだろう。しかし蛇の目模様はしっかりと何かを見つめているようで、青と白の円は見つめられる側の弓道の的の様でもある。何より土から生まれたそのつるっとした質感を持つ小さなものは、いつまでも触っていたい趣が備わっている。ホンマタカシさんならそれに「アフォーダンスがある」とでも言うだろうか。しっかりと、和を感じずにはいられない。江戸より以前から、人々はこのような小さな器で米から作られた酒を交わしてきたのだろう。明治、大正、昭和、平成と状況は違えど、そこには酒があり、人がいて、話があった。思うより、人生とはただそれだけのことなのかもしれない。よほど暇なのか、そのようなことにまで思いを馳せてしまう。
 早速近くの魚屋で、旬のブリを手に入れて、新潟の地酒を注いでみた。その時、誰も話を交わす相手はいなかったがブリが何か言ったような気がした。「もうなにもいらない、すべてここにある」
 こうなると他、5つのお猪口の行方が気になってくる。ひとつは竹脇さんが使うとして、残り4つはどこへ行ったのだろう。世界に散らばった六つのお猪口が再び揃う時、僕らはどんな願い事をするのだろうか。

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