女子高生のインスタグラム感とJeff Mermelsteinと

 先日、ある仕事で高校生モデルの子と撮影する機会がありました。そこは都内の地下にあるスタジオで、珍しく携帯の電波が入りづらい所でした。(不思議なことに、電波も弱く、ワイファイ設備も無い古代遺跡のようなスタジオが今でも存在します。)
 不思議な光景を目にします。待機時間に話しをしていて、インスタをいじり出した彼女は自分のフィードに次々と♡をつけていきます。しかし、写真はそこに、ひとつも無いのです。電波の弱い場所で起こるような、テキストは出ているけれど、画像の読み込みが追いつかずサムネイルがブラーした状態です。「どうして写真見えてないのにlikeするの」と聞くと「(その子が)更新していることが偉いから」とのことでした。
 その時僕が思い出したのは、なぜかイタリアンヴォーグの表紙でした。そして先に言うと、現代の写真がとうとう被写体主義を超えて、英雄主義(撮影者主義/自称)の時代に突入したのだなということでした。少々大袈裟ではあるのですが、インスタグラムに限らず感じるところは色々とあります。
 菅付雅信さんも言っているのですが、写真は広く民主的でありながらも、芸術至上主義かつ貴族主義的な側面もあります。その変態可能な両義性、あるいはギャップのようなものが多くの人々を惹きつけてきました。今や誰でも撮れるものでありながら、著名人や貴族を撮れる人は限られています。芸能人などを写した写真は被写体主義の代表であり、写真を見る人は写真の良し悪しなど考えず、写っている人物だけを見ています。そしてその多くは(こういうといささか失礼ですが)、写真的には全く面白くなかったりします。
 誰でも撮れるようになったことによって、写っている物そのものを重要とすることはインスタを代表とするSNSでよりブーストされました。誰といるのか、何を食べたのか、どのブランドを着ているのか、どこに旅行しているのか。それが最も重要な事だったのです。しかしこれからは写真は映像としての存在を超えて、被写体と同時に”誰が撮ったのか”により焦点が当てられていく時代になるのです。もうそんなに真剣に写真は見なくても良い。この女子高生のインスタの押し方が今の気分です。イタリアンヴォーグも、もちろん毎回素晴らしく最高なのですが、マイゼルが撮っているから、それはイタリアンヴォーグなのです。
 あれ、Jeff Marmelsteinについて書こうと思ったのに、マイゼルの話になってしまいました。今回の話と対岸にある、写真が写真として生き残るためのスナップ写真の可能性については、長くなるのでまた今度にします。ジェフごめん。

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