電話嫌いの電話の楽しみ方

電話は嫌いだけど電話の良さというのはその拘束性にあるのではないかと思った。昔の下宿場に固定電話が一つだけあって恋人でも友人でもとにかく誰かと話す時は電話の前まで行って受話器を耳に当てなければならないその拘束性。拘束性が親密さを錯覚させるのではないか。

ジャルジャルが教えてくれること

言いたいことや言葉がきれいに整理されて、喋りがどこまでもスムースで上手い人よりも、言葉に躓き、話し方の癖や独特な言い回しが出ちゃってる人のほうが好感を持ちやすい。そのような人ほど結構重要な情報を持っていたりする。

霧雨の中を走る

 仕事を終えて走りに出た。雨は本降りではなかったが、霧のような粒が空気中にあって前方に移動するとそれらが体にまとわりつく感じ。自分から濡れに行っているようで妙な快感がある。気温が低くてとても走りやすかった。22℃くらい。いつもこれくらいだといいのにと思う。走り始めは毎回どうしてこんなに辛いことをやってるのかと思うが、2キロくらい進んだ時にはもう快感に変わっている。夜だと周りが暗くて、足は自動的に音楽に合わせて同じリズムを刻むので、まるで脳だけが前に進んでいるような不思議な感覚に陥る。このような雨っぽい日にはいろんな匂いがする。風がなくても身体を前に進めると、空気は流れるから。自分が風。普段は潜んでいるはずの匂いが、雨によって空気中に現れている感じ。土っぽい匂いやおたまじゃくしの匂いや誰かが吐いたタバコの匂い。走っている時は集中力が増しているせいか、それらは様々な記憶を呼び起こす。昔住んでいた木造の家、友人のベランダと缶ビールとタバコ、どこか遠い場所での季節の変わり目、梅雨の時期に青梅街道をドライブしていた日。そんなことを考えながら走っていると、次第に街ゆく人たちが知人に見えてくる。写真家の先輩がラーメン屋のカウンターに座っていたり、モデル事務所のマネージャーが疲れた顔で歩いていたり。こちらは速度づいているので、一瞬の刹那だ。たぶん本人ではないのにその一瞬が錯覚を助長させる。何かに近いと思ったら、スナップ写真を撮っている感覚だった。通り過ぎた後に「〇〇さんじゃん」と実際口に出して言う。本当はそれが違うのだとわかっていても、言いたくて言っている。それが可笑しくて笑ったりする。相当変態だ。走っていなければ職質を受けそうなくらいには危ない。でも雨の日は暗いので、本当にあの人だったのではないかという思いがしばらく消えない。そんなことをやっているうちに5キロが終わる。ナイキのランニングアプリをずっと前から使っていて、最近は走り終わった後にナイキランクラブの世界中のコーチが褒めてくれる。おそらくコーチは何かのアルゴリズムによってランダムに選ばれている。今日はポートランドのジュリーだった。「君の今日の走りと努力は、誰にも奪われることはないものだわ。やったわね」みたいになかなか気の利いたことを英語で言ってくれる。たぶん実在するコーチがいて、実際そのような言葉を使っているのだろう。汗だくになりながら「サンキュージュリー」とまた実際に口に出して言う。それが終了のシグナルになる。やっぱり相当あぶない感じがする。周りに一応、誰もいないことを確認しながら。

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ブログとプロセスエコノミー

天気が悪いのをいいことに、一日中部屋に籠もって作業していた。冷房なく過ごせるのは急に秋が来たみたいだ。朝の時点で色々とタスクは書き出していたものの、結局写真の整理や本読みや走ることや書くことはひとつも消化できなかった。できたことと言えば数件のメールとブログのプラグインを少し変えたこととと過去記事の整理くらい。それだけで気づけば1日が過ぎていた。最近はずっと外に出ていたからたまにはこういうのもいいかという自己肯定。PCの前に張り付いているのは体にはあまりよくない気がするけど。

写真や映像を日頃扱っているせいか、最近なかなか映画や映像作品を見る気になれない。その分自然と活字に意識が向く。このブログを編集する流れから、ふと昔見ていた人たちのブログが見たくなって幾つか検索してみた。まだあるかな、うおー、ある。ページが見つかりませんの表示や、ブログサービスそのものが終了しているものもあった。10年という歳月は永続的と思われるインターネットの世界でも繁栄と成熟と衰弱を生むようだ。それでも残っているブログを見つけて、懐かしい気持ちでページをめくった。

10数年前のブログは多くが日記のようなものだったことを思い出す。SEOやタグを意識することもなければ、キーワードや収益も考慮しない。それぞれが、自分自身と外の世界の狭間を埋めるようにただ文章をしたためている。まるで精神分析をするみたいに。それが今とても新鮮に思えた。そういうブログは今では少なくなったように思う。スティーヴン・キングが「文章の良いところは時代を超えて物事を瞬時に伝えれること、それはテレパシーなのだ」というようなことを言っていたのを思い出した。15年くらい前のブログと、現在。2000年代のインターネットの雰囲気にしばらく浸かっていた。

今ちょうど尾原和啓さんの「プロセスエコノミー」という新著が話題になっている。情報が溢れテクノロジーは進歩し、商品やサービスそのものが均一化してしまい、いくら良いものを作っても競争力を得にくい時代になった。だから商品を作る過程=プロセスそのものを経済的生態系として捉えるという考えである。新しい言葉をつくるのがうまい尾原さんらしい本だと思ったが、確かに昨今のインターネットにおけるサービスはクラウドファンディングもオンラインサロンも個人的生活をログり続ける系のユーチューブも全て、過程を見せて物語を共有することでそれが商品と同等かそれ以上の価値を帯びるような構造になっている。主軸となる商品やサービスは設定されていながらも、そこに向かう過程そのものがコンテンツ(商品)として成立している。狩りをする人間の仕留めた獲物を頂くのではなく、狩っている姿を見ることを楽しんでいるようなものだ。

それで2000年代のブログもプロセスエコノミーではないかと思った。特にあの個人的な日記のような、ひとり精神分析のようなブログたち。そこではPV数も収益もほとんど考慮されていない。もちろん当時も職業的ブロガーはいただろうが、圧倒的に数は少なかった。それはインターネットがあくまで現実に付随するサブ的な場所だったからだろう。だから自分の中に深く潜るように、あるいは現実の場所とは異なる場所でもう一つのアイデンティティを生きるように、誰もが好き勝手書けた。そしてそのようにして書かれたブログを友人や知人でなくても、まるで友人や知人のように読むことができた。その世界には嫌悪やヘイトもあったかもしれないが、共感や応援や称賛や喝采だってあったはずだ。当時のブログには主軸となる商品は無く、純粋に過程=プロセスしかなかったのかもしれない。

雨が少し弱くなったので外へ出た。街に人通りは少なく渋谷全体が葬式みたいに静かだった。街が静かなのはコロナのせいなのか、雨だからなのかと考えながら夕飯を買って帰った。サンダルの隙間から足に当たる雨が冷たかった。レモンサワーを作っていると田舎の母からラインが来て、ピンぼけした花火の写真が同じような構図で4枚送られてきた。地元の花火大会も過去一番くらいに人出が少ないらしい。そこでようやく、今日がお盆であることに気がついた。

非効率な人間の撮る、非効率な写真。

カメラが光学的であるが故に写真は本来的に非効率的なものである。第一次メディウムがフィルムからイメージセンサーになってある程度プロセスは効率化されたとは言え、光とレンズと撮像素子という構成要素は未だ変わらない。カメラ・オブスクラ=暗い部屋からiPhoneになり随分薄っぺらくなり空間的な醸造感は無くなりつつあるが、代わりに背後ではデジタル処理が走っていて結局光・レンズ・センサーを必要としている。むしろポストプロダクションの多様性、つまり無限にあるソフトウェアや処理方法を考えればメディウムがフィルムだった頃よりも複雑さを増し、より非効率になったと言えるかもしれない。

生きることも本来的に非効率なことである。食べて消化して栄養素にして排出するという構成要素から人間は逃れることができない。ジュリア・ロバーツみたいに「食べて祈って恋をして」いるならまだ楽しそうだが、私たちは食べて消化して排泄することに多大なエネルギーを使っているのが現実だ。世の中は効率化のコツみたいなものに溢れているが生き方を効率化しようなどという発想自体が怪しいことになる。人間がそもそも非効率な生き物なのだから。非効率な写真と非効率な人間。非効率な人間の撮る、非効率な写真。

朝4時に起きて移動して良きロケーションで撮影して、家に戻って昼寝して、別の仕事を挟みつつ写真をセレクトしてアタリデータも作って。非効率ながらも最高な1日だったという話し。面倒なことはなるべくやりたくないが、幸福感や充実感をもたらすのは非効率なことなのかもしれない。夕飯はまだ。

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篠山紀信さんの「新・晴れた日」を観て – 東京都写真美術館

少し前になる。いやカレンダーの日付を見たら結構前だ。7月の半ば頃、東京都写真美術館で開催されている篠山紀信さんの展覧会「新・晴れた日」を見てきた。忘れないうちに感想をここにまとめておく。

現在東京都写真美術館はCOVID19の影響で時間ごとに枠を設けて入場者数を制限し、事前予約制になっている。WEBでの手続きが面倒だったので、そのまま行ったら入れてくれた。前回は森山大道さんの展示だっただろうか。一年ほど変わらない状況が続いていることになる。そしてなぜかビッグネームがこのタイミングで展覧会を行っている。

今回の展示は篠山さんの仕事を全体的に俯瞰できるような構成になっており、1960年代から2020年までの写真が2フロアに分かれて盛大に展示されている。篠山さんの写真を見ることは日本の歴史を見るのと近しい。それくらい時代を撮っている写真家だ。数年前で止まっているのかと思えば、2020年に撮られた写真も展示している。2021の今もおそらく撮っているだろうし、そういうところに写真家としての基礎体力と、写真の持つ時間の質量を感じる。

明星の表紙を並べていたのは印象的だった。雑誌媒体使用の写真を大きなサイズで見ると気持ちがいい。アンブレラ一発のストレートなライティング。こういうことを巨匠に言うのは逆に失礼になるのかもしれないけれど、素直に写真うまいなぁと思ってしまった。鑑賞している時はそれが篠山さんが撮影したという意識は消えていて、被写体がそのまま前に出てくる感じ。写真の持つ強さと、写真家の技術が現れていた。アイドルから政治家から市井の人まで、全て写っている。

人物だけでなくランドスケープもある。プールを大判で絞り込んで撮っている写真。アンドレアス・グルスキー的な手法だ。グルスキー以前から、グルスキーしている篠山さんはすごい。

本人が語るインタビュー映像も良かった。「撮ってる姿勢が晴れた日」だと言う。人類学的ハレとケ区別で言うなら、篠山さんにとって写真は日常に属するケではなく、祝祭や儀礼に属するハレに当たるということなのだろう。「写真を撮り行く日はいつも晴れている。撮ってやるぞという気力。それが晴れた日の気持ち」

素直に羨ましく思ってしまった。そのような気持ちで毎回写真を撮ることができたなら、どれほど素晴らしいだろう。写真を初めた時は誰しもそのような気持ちを持つものだが、慣れてきたりプロになって仕事としてしまうと忘れてしまう。60年間そのような気持ちで撮り続けられていることが、篠山さんを篠山紀信づけているのかもしれない。

ヌード。東京の夜の公園なんかで撮っている。集合写真的な構成で。当時は撮影に関する社会的ゆるさはあったものの、フィルムだったので技術的には難易度が高いはずだ。当てていることを悟られないくらいのライティングもバランスが良くて美しい。

篠山さんはお寺の住職の次男坊として生まれた。次男坊のため寺を継げず、社会人も嫌で第一志望の大学にも落ちた。それで「好きなことでもやったらいいんじゃないかな」と吹っ切れたらしい。その後新聞広告で見つけた写真の学校に入学して写真を学び始める。

「当時は写真雑誌が10誌以上あって業界そのものが賑やかだった」という。カメラメーカーも賑やか。そこに写真家としての活動がうまく重なった。土門拳や木村伊兵衛が先輩として現役で撮っていて、会社ではなかったものの「写真業界に就職したようなもの」と表現している。さらに大学の同級生に沢渡朔がいて、夜間で通った専門学校の同級生には操上和美がいた。

私たちの世代からすると二周り上の先輩にあたり、まさに写真界のスター世代。今回の展示は日本の歴史を振り返ると共に、写真業界の歴史をも俯瞰するような良い機会となった。今は80年代と比べて業界そのものが賑やかではない。しかし当時と比べて今を悲観するわけでもなく、スターたちは今も撮り続けているわけで、そこに私たち世代の写真家がどのように立ち振る舞うか、どのように撮っていくかのヒントがあるような気がする。

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メンズ脱毛の無意味さと意味

きっと脱毛そのものに大きな意味はない。脱毛で人生が大きく変わったという話しも聞かない。中にはいるのかもしれないが。メンズでヒゲ脱毛を行うと毎朝の時短になるなんて言われているけれどそんなヒゲを剃る時間くらい、と正直思ってしまう。結局時間が余るとぼーっとしたりネトフリ見たりユーチューブ見たりするのだから、それで生産性が上がるなんて考えるのはちょっと甘いんじゃないだろうか。ハイデッガーくらい時間に対する意識が高くて分刻みでスケジュールが入っているオーナー社長でもない限り。だがそんなハイデッガーもオーナー社長も今まで見たことない。

ひげ剃りは退屈から逃れるものであり、何か気合を入れる時のシグナルとして働く。プレゼンとか、女の子とのデートとか。気合を入れるのが苦手な人はむしろヒゲがあったほうがいいような気がする。ここぞという時は髭を剃って気合を入れてプレゼンやデートを成功させようよ。

実は自分の毛を気にするのは自分だけであり、他人にとってはほとんどどうでも良いことだ。脱毛そのものよりも脱毛をしたという経験のほうが、人生に及ぼす影響は大きいと思っている。脱毛というコンテクストの共有。言語というには大袈裟かもしれないが、長編ドラマシリーズを1作品見てるか見てないかくらいの違いは出てくる。たぶんバンジージャンプをやったことがあるか、よりも情報密度は高い。特に女性はなにかしらの脱毛ストーリーを持っていることが多いもので、共通の話題がなくても脱毛話があれば商談や会食を乗り切れるようになる。ただし初対面で「俺VIO脱毛やってるんですよ」はちょっとマズい。トラブルを招く危険性があるので避けたほうがいい。

医療かサロンか、光かレーザーかニードルか、部位と痛みと施術料金について、体毛の歴史と各国の脱毛状況そして、毛周期。商談前のアイスブレイクで話すには時間が足りなそうだ。そして改めて、やはり商談時にはふさわしくない話題かもしれない。うん。

脱毛をきっかけに、友人が増えていく。ゴルフ仲間でもなく釣り仲間でもなく麻雀仲間でもなく、脱毛仲間。遊ぶのではなくただ真剣に脱毛について語り合う。不思議な世界になったものだ。でもこの世の中にはいろんな種類の仲間がいてもいい気がしている。

「ねえあなた、今日は誰と出かけるの」
「脱毛仲間さ」
「あら脱毛仲間ね。いってらっしゃい。紫外線には気をつけて」

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写真は自動的に始まる

新たな場所に移動して今日もまた新しい写真が撮れる事実は素晴らしい。つまり写真は撮っていて一生飽きることがない。飽きることができない。それは動く身体と変化する風景という二重の意味で散歩に近い。散歩には飽きる飽きないの概念がない。ただし、退屈はする。写真もそれは同じ。

写真に飽きた時はその飽きた内容を見極める必要がある。

私は写真に飽きているのか、このカメラに飽きているのか、それともこの生活に飽きているのか。自分に問う。するとそれは写真に対する飽きではないことがわかる。

一度飽きたと思って写真を辞め、例えばサーフィンを趣味にしたなら、サーフィンにカメラを持っていく。辞めたはずなのにとりあえずカメラを荷物に入れておく。すると、写真は自動的に始まる。それも以前よりも面白いかたちで。

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