電話嫌いの電話の楽しみ方

電話は嫌いだけど電話の良さというのはその拘束性にあるのではないかと思った。昔の下宿場に固定電話が一つだけあって恋人でも友人でもとにかく誰かと話す時は電話の前まで行って受話器を耳に当てなければならないその拘束性。拘束性が親密さを錯覚させるのではないか。

出る時間も余裕もないので普段は電話にほとんど出ない、というより常に何かしているので出れないのだが、どうしても出なければならない時は絶対にスピーカーかイアホンにしてスマホを耳に当てないようにしている。その拘束性から少しでも逃れようとするように。電話から離れると言葉をテキストのように少し冷静な情報として捉えられる気がする。ハンズフリーだと話の内容をpcに両手で書き留めて、次の行動をすぐに起こすこともできる。

pcに書き留めて文字にしていることを思えば、やはり最初から要件はテキストで来るほうが早いしありがたい。そして非同期という良さ。ハードボイルドなパラレルワールドを生きる僕たちには、電話はあまりに繋がりすぎる。映画マトリックスで電話が時空移動の手段となっているように、それは思っているよりも危険なものなのかもしれない。

拘束性からくる親密さ、つまり電話の醍醐味を最大限に享受したいなら- 例えば好きな人と話す時など- 電話は片方の手でしっかり持って、片方の耳にきちんと当てて、正面の風景や右斜め上をうわの空で眺めつつ遠くの相手を思いながら話すのがいいのかもしれない。違う世界に転送されてしまわないようにだけ、気をつけよう。

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ジャルジャルが教えてくれること

言いたいことや言葉がきれいに整理されて、喋りがどこまでもスムースで上手い人よりも、言葉に躓き、話し方の癖や独特な言い回しが出ちゃってる人のほうが好感を持ちやすい。そのような人ほど結構重要な情報を持っていたりする。

ニュースキャスターは情報を正確に伝えるという使命のうえで崩れない。テニスコートの中でゲームをプレイするテニス選手のように、常に番組というゲームの中でプレイしなければならず、アナウンサーとしての語彙や言い回ししか使えない。そこには言葉が言葉を生むような、拡張する思考がない。アドリブと言い換えてもいい。だから基本的に響きにくいし内容に親近感を持ちづらい感じがする。

リモートのMTGにもそういうところはあって、ズームやミートというゲームのルールに常に支配されている。人に会って話すということは、自己との対話でもあり、フリーライティング的であり、言葉が言葉を生むような拡張する思考を伴うものである。それらを同時に行っている。リモートでふざけることは難しい。ふざけれない、冗談を言えないという状況は結構辛いものだし、文化的に貧しいことだと思う。そのようにしてどんどん世界は貧しくなっていく。

その中でジャルジャルという芸人がやっていることは、ズームやオンラインの形式をお笑い的発想でラディカルに崩すことで、ネタの多くはアイロニカルな笑いに満ちている。寝たままリモートMTGを行うネタは、単純にばかだなぁでは済まされない。私たちにズームは寝たままでも使える、ミーティングは寝たままでもできるという示唆を与えてくれるものだ。

実際にズームでのMTGを寝ながら行うのは難しい。寝たままズームを使おうという発想に至らないのは、PCのカメラが画面上部に付いているからであり、PCは椅子に座ってテーブルで使用するように設計されているからである。寝た状態で行うには、デバイスをスマホにして、ベッドか布団の上に三脚かアーム等で固定する必要がある。天井からの照明の当たり方を考える必要もあるかもしれない。普通の会社員、というより使用者はそこまでして寝たままMTGしようとは考えない。寝て楽になるように思えて、むしろ楽にはならないから。

誰が決めたでもない、見えないルールに私たちはいつも支配されている。それは環境によって作られる。環境とはソフトウェアであり、サービスであり、組織であり、建物である。広く言えばこの地球も宇宙という環境の中にある。そのような環境に支配されて、時に人間的な自由や奪われなくてもよい自由を奪われていることがある。環境は発想で突破しうることをジャルジャルは教えてくれる。この一回きりの人生では、狂ったほうが楽しい。今、チャーリー・ミンガスのWednesday Night Prayer Meetingが流れてきた。どうせやるならこういうミーティングがいい。実際オンラインのミーティングにチャーリー・ミンガスが入ってきたら、どう声をかけたらよいか戸惑うのだろうけれど。

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霧雨の中を走る

 仕事を終えて走りに出た。雨は本降りではなかったが、霧のような粒が空気中にあって前方に移動するとそれらが体にまとわりつく感じ。自分から濡れに行っているようで妙な快感がある。気温が低くてとても走りやすかった。22℃くらい。いつもこれくらいだといいのにと思う。走り始めは毎回どうしてこんなに辛いことをやってるのかと思うが、2キロくらい進んだ時にはもう快感に変わっている。夜だと周りが暗くて、足は自動的に音楽に合わせて同じリズムを刻むので、まるで脳だけが前に進んでいるような不思議な感覚に陥る。このような雨っぽい日にはいろんな匂いがする。風がなくても身体を前に進めると、空気は流れるから。自分が風。普段は潜んでいるはずの匂いが、雨によって空気中に現れている感じ。土っぽい匂いやおたまじゃくしの匂いや誰かが吐いたタバコの匂い。走っている時は集中力が増しているせいか、それらは様々な記憶を呼び起こす。昔住んでいた木造の家、友人のベランダと缶ビールとタバコ、どこか遠い場所での季節の変わり目、梅雨の時期に青梅街道をドライブしていた日。そんなことを考えながら走っていると、次第に街ゆく人たちが知人に見えてくる。写真家の先輩がラーメン屋のカウンターに座っていたり、モデル事務所のマネージャーが疲れた顔で歩いていたり。こちらは速度づいているので、一瞬の刹那だ。たぶん本人ではないのにその一瞬が錯覚を助長させる。何かに近いと思ったら、スナップ写真を撮っている感覚だった。通り過ぎた後に「〇〇さんじゃん」と実際口に出して言う。本当はそれが違うのだとわかっていても、言いたくて言っている。それが可笑しくて笑ったりする。相当変態だ。走っていなければ職質を受けそうなくらいには危ない。でも雨の日は暗いので、本当にあの人だったのではないかという思いがしばらく消えない。そんなことをやっているうちに5キロが終わる。ナイキのランニングアプリをずっと前から使っていて、最近は走り終わった後にナイキランクラブの世界中のコーチが褒めてくれる。おそらくコーチは何かのアルゴリズムによってランダムに選ばれている。今日はポートランドのジュリーだった。「君の今日の走りと努力は、誰にも奪われることはないものだわ。やったわね」みたいになかなか気の利いたことを英語で言ってくれる。たぶん実在するコーチがいて、実際そのような言葉を使っているのだろう。汗だくになりながら「サンキュージュリー」とまた実際に口に出して言う。それが終了のシグナルになる。やっぱり相当あぶない感じがする。周りに一応、誰もいないことを確認しながら。

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ブログとプロセスエコノミー

天気が悪いのをいいことに、一日中部屋に籠もって作業していた。冷房なく過ごせるのは急に秋が来たみたいだ。朝の時点で色々とタスクは書き出していたものの、結局写真の整理や本読みや走ることや書くことはひとつも消化できなかった。できたことと言えば数件のメールとブログのプラグインを少し変えたこととと過去記事の整理くらい。それだけで気づけば1日が過ぎていた。最近はずっと外に出ていたからたまにはこういうのもいいかという自己肯定。PCの前に張り付いているのは体にはあまりよくない気がするけど。

写真や映像を日頃扱っているせいか、最近なかなか映画や映像作品を見る気になれない。その分自然と活字に意識が向く。このブログを編集する流れから、ふと昔見ていた人たちのブログが見たくなって幾つか検索してみた。まだあるかな、うおー、ある。ページが見つかりませんの表示や、ブログサービスそのものが終了しているものもあった。10年という歳月は永続的と思われるインターネットの世界でも繁栄と成熟と衰弱を生むようだ。それでも残っているブログを見つけて、懐かしい気持ちでページをめくった。

10数年前のブログは多くが日記のようなものだったことを思い出す。SEOやタグを意識することもなければ、キーワードや収益も考慮しない。それぞれが、自分自身と外の世界の狭間を埋めるようにただ文章をしたためている。まるで精神分析をするみたいに。それが今とても新鮮に思えた。そういうブログは今では少なくなったように思う。スティーヴン・キングが「文章の良いところは時代を超えて物事を瞬時に伝えれること、それはテレパシーなのだ」というようなことを言っていたのを思い出した。15年くらい前のブログと、現在。2000年代のインターネットの雰囲気にしばらく浸かっていた。

今ちょうど尾原和啓さんの「プロセスエコノミー」という新著が話題になっている。情報が溢れテクノロジーは進歩し、商品やサービスそのものが均一化してしまい、いくら良いものを作っても競争力を得にくい時代になった。だから商品を作る過程=プロセスそのものを経済的生態系として捉えるという考えである。新しい言葉をつくるのがうまい尾原さんらしい本だと思ったが、確かに昨今のインターネットにおけるサービスはクラウドファンディングもオンラインサロンも個人的生活をログり続ける系のユーチューブも全て、過程を見せて物語を共有することでそれが商品と同等かそれ以上の価値を帯びるような構造になっている。主軸となる商品やサービスは設定されていながらも、そこに向かう過程そのものがコンテンツ(商品)として成立している。狩りをする人間の仕留めた獲物を頂くのではなく、狩っている姿を見ることを楽しんでいるようなものだ。

それで2000年代のブログもプロセスエコノミーではないかと思った。特にあの個人的な日記のような、ひとり精神分析のようなブログたち。そこではPV数も収益もほとんど考慮されていない。もちろん当時も職業的ブロガーはいただろうが、圧倒的に数は少なかった。それはインターネットがあくまで現実に付随するサブ的な場所だったからだろう。だから自分の中に深く潜るように、あるいは現実の場所とは異なる場所でもう一つのアイデンティティを生きるように、誰もが好き勝手書けた。そしてそのようにして書かれたブログを友人や知人でなくても、まるで友人や知人のように読むことができた。その世界には嫌悪やヘイトもあったかもしれないが、共感や応援や称賛や喝采だってあったはずだ。当時のブログには主軸となる商品は無く、純粋に過程=プロセスしかなかったのかもしれない。

雨が少し弱くなったので外へ出た。街に人通りは少なく渋谷全体が葬式みたいに静かだった。街が静かなのはコロナのせいなのか、雨だからなのかと考えながら夕飯を買って帰った。サンダルの隙間から足に当たる雨が冷たかった。レモンサワーを作っていると田舎の母からラインが来て、ピンぼけした花火の写真が同じような構図で4枚送られてきた。地元の花火大会も過去一番くらいに人出が少ないらしい。そこでようやく、今日がお盆であることに気がついた。

非効率な人間の撮る、非効率な写真。

カメラが光学的であるが故に写真は本来的に非効率的なものである。第一次メディウムがフィルムからイメージセンサーになってある程度プロセスは効率化されたとは言え、光とレンズと撮像素子という構成要素は未だ変わらない。カメラ・オブスクラ=暗い部屋からiPhoneになり随分薄っぺらくなり空間的な醸造感は無くなりつつあるが、代わりに背後ではデジタル処理が走っていて結局光・レンズ・センサーを必要としている。むしろポストプロダクションの多様性、つまり無限にあるソフトウェアや処理方法を考えればメディウムがフィルムだった頃よりも複雑さを増し、より非効率になったと言えるかもしれない。

生きることも本来的に非効率なことである。食べて消化して栄養素にして排出するという構成要素から人間は逃れることができない。ジュリア・ロバーツみたいに「食べて祈って恋をして」いるならまだ楽しそうだが、私たちは食べて消化して排泄することに多大なエネルギーを使っているのが現実だ。世の中は効率化のコツみたいなものに溢れているが生き方を効率化しようなどという発想自体が怪しいことになる。人間がそもそも非効率な生き物なのだから。非効率な写真と非効率な人間。非効率な人間の撮る、非効率な写真。

朝4時に起きて移動して良きロケーションで撮影して、家に戻って昼寝して、別の仕事を挟みつつ写真をセレクトしてアタリデータも作って。非効率ながらも最高な1日だったという話し。面倒なことはなるべくやりたくないが、幸福感や充実感をもたらすのは非効率なことなのかもしれない。夕飯はまだ。

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