3タイプの写真家

先日、このような言葉がふと生まれ落ちた。

僕は割と、写真を撮る時、光や色に導かれて撮っているような気がする。

だいたいカメラは持っているから、あっ、と思った瞬間に押すだけでいい。

楽していると言えばそれまでだが、コンセプチュアルに写真を撮る写真家のように現在進行形のプロジェクトもなければ、サマリーやステイトメントの執筆に頭を抱えることもない。

ただ撮るのだ。

そういう意味では3つめの「ただ生きている者」に分類されるが、果たしてそれは写真家だろうか。

ツイートに対し、このようなアンサーソングが。

これは生きることだなと思った。

本当に生きていると、写真を撮る暇など実際ないのだ。

それでも写真を撮るということは、何かを捨て、身をある程度の危険に晒すという覚悟が必要となる。

覚悟の有無。それが写真家たるか否かを左右するのではないか。

leaves ©tokimaru 2018 by sigma DP2

年始に長崎の実家に帰り、しばらくその周辺をぶらぶらしていた時に撮影した、カフェの中に差す光に醸された花瓶に活けられた葉たち。

結構僕はウィリアム・エグルストンが好きで、その色が良く出た写真だと後で観て思った。

地元メンフィスをひたすらに撮影したことで知られるニューカラーの巨匠だ。

写真界では「写真の父」なんて言われることも多く、実際多くのフォロワーを生み出し、ニューカラーという流派を決定付けた人物でもある。

しかし、エグルストンは不思議な写真家だ。

ニューカラーでありながら、同時に決定的瞬間の要素が入っている写真を結構撮っている。

”地元で撮る”という行為がそもそもニューカラー的なのに、そこを新しい場所として今起きていることを捉え直すような趣がある。

それは彼が当時、ライカとコンタックスG2というとても速い(どちらかと言えば決定的瞬間、スナップ向きの)小型カメラで撮影していたことも要因の1つだとは思う。

自身のインタビューの中でも「ある状況にたいして、一枚しかシャッターを切らない」と言っていた。(広告写真の依頼は全て断っている、とも)

つまりスナップでありながら、ニューカラーである。

この事実が、彼を特別足らしめているし、オン・ザ・ロードな古き良きアメリカと相性が抜群なんだと改めて思う。

ウィリアム・エグルストンも、ただ生きているだけのスタンスなのかもしれない。

そのような姿勢に今でもずっと憧れている。

美術館収蔵レベルのニューカラーの教科書。

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