書く為の装置としての日記

書くための装置として日記がある。写真日記にしたことで、これは撮るための装置ともなっている。とにかく、日々制作を行うトレーニングのようなもので、11ヶ月続けてきて、昔、大学の指導教官が言っていた「ブログは文章を書く素振りみたいなもの」の意味が、体感としてよくわかってきた。これまでぼぼ強制的に日記をつけることもなかったし、毎日写真を撮ることもーそれも非商業的なスナップ写真をーなかった。なんでも生成のジェネレータになりうる。ツイッターでもインスタグラムでも、それぞれのSNSのノリみたいなものがあるにせよ、それを自分のノリで生成装置にしてしまうというわけだ。もちろん独特な使い方をしていると周りからはズレて、キモくなる。しかしそれでも自分が心地よく続けられるのなら、周りに振り回されるよりもずっといい。音楽でもそうで、プロのギタリストのほとんどが部屋というか生活する場所にギターを裸でぽんと置いている。毎回ギターケースにしまったりしない。日々触れられる場所に置いておくことで、毎日弾く習慣が生まれて勝手に上達する。自分の型みたいなのがいつの間にか出来てしまい、その型をレッスンやライブという外部構造というか他者によって突破していくという段階も来るだろう。しかしそこに到達するにも、まず日々生産できる基礎体力があってこそ。生み出していくには、自動生成するような装置を自分の中に持つこと。そういえば千葉雅也さんもそういうことを言っていた。いや、おそらく僕は千葉さんの言葉を受けてこれを書いている。他人の言葉は頭の中に残り、それが時を経て発露する。そして発露する時にはジェネレータがうまく機能する。そういうわけで今ここに、この文章がこぼれ落ちた。12月に入って突然寒くなって、パッとしない天気が続いている。久々に近くの中華屋にお昼を食べに行ったら、材料費の高騰で丼の具材が少なくなっていて、いつも大盛りで困っていたので、ちょうどよくなって嬉しかった。