ひさしぶり、常丸です。
得意料理を「ほうれん草のおひたし」ですと宣言することは、「趣味は読書と映画です」と言っているのと大体似通っている。
茹でるだけだから。誰でも出来る。
ハードコアな料理好きにとって、ほうれん草のおひたしは料理に分類されないというのが世間一般の見解かもしれない。
僕は、最近になってほうれん草のおひたしを自ら作るようになった。
今まで生きてきた(といっても一人暮らしを始めた18頃からすると)十数年間、何度か作ってはきたものの、何故かしっくり来た事がなかった。
数日前、撮影でひどく疲れて、家に何もなく、何も調理する気になれなかったので、近所の小料理屋にふらりと入り、ほうれん草のおひたしを注文した。(大体の小料理屋にそのメニューは必ずある)
そこでは、同じほうれん草でも「胡麻和え」と「おひたし」が選べるのだが、僕は「あえられるよりも、浸したい派」なので、迷うことなくおひたしを注文した。
シニアになりつつあるキンキキッズも、きっとおひたしを選ぶだろうと思いながら。
そこで出てきたものは、完璧に近い「ほうれん草のおひたし」であった。
束に成って固くごろっと絞られた、二つのほうれん草の塊に、削り節がさらりとつもり、小ぶりな和皿の上に静的に置かれている。余分なものはひとつもなく、足りないものも見当たらなかった。
それはまるでヨーゼフ・ボイスの作るコンセプチュアルな彫刻のように見えた。
少しだけ醤油を垂らし、もぐもぐいただく。
こ、これは、そう、ほうれん草のおひたしだ!と宛のない感動と感謝が押し寄せ、涙が出そうになる。
そこでしばらくそのおひたしを観察し、なぜ自分がつくるおひたしとこうも異なるのか、考えを巡らせてみた。
茎は茎、葉は葉、という塊で構成されている。そのことが、それはほうれん草である、あるいはほうれん草であったという美しさを讃えている。まるで今朝採って、茹でて、そのまま大将が絞って、手のひらの形がそのまま残っているような。
そこで僕は重大な事実。「切って茹でるのではなく、まるごと茹でて、絞って、切るという順序である」ということに気がついたのだ。
もしかするとこれは、ほうれん草のおひたし界では初歩の初歩。常識なのかもしれない。
ミニマリストな現在、うちにはボウルはあるが、ザルが無い。
毎回、切り刻んだほうれん草を、茹でて、集めて、まとめて、絞ることに大変な労力をかけていた。
むしろその労力こそが、ほうれん草のおひたしを美味しくするおまじないであるとでも言わんばかりに、ほうれん草に手間と愛情を込めることを美徳としていた。
料理において、手順は大切だ。
その味はもちろん、料理の存在意義をも左右する。
ほうれん草のおひたしは、さくっと作れるから、いつまでもほうれん草のおひたしだったのだ。
この気づき胸に、今後の人生を生きていきたい。
欲を言うなら、ほうれん草のおひたしをさらっと作ってくれる女の子に出会いたい。
(なぜかいまだかつて出会ったことが無い。みんなそれは料理ではない、と思っているのだろうか)
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