コンテンツなき芸術/写真は存在するか

こんにちは、常丸です。

落合陽一さんの話から、写真に関する考察の断片的な覚書を。

絵の具と壁がメディアだとするならば、書かれた物はコンテンツ。
書かれたもの無しにして、絵の具と壁だけで芸術と成り得るかという話。

これはそのまま「写真」についての話とも読めると同時に、芸術の一部を担う写真の歴史としても読める。

落合さんはこう話す。

「ハンドアンドクラフトの成立しない時代に、個人に根ざしたアーティスト像が必要だとは思えない。この社会に共通の文献もないコンピュータによる親和性がもたらすのは非言語の美。それはハリウッドがCGの力で実現し、さらに劇場を越え育て社会に溶け込んだ。アートは溶け、アーティストは消える」

18世紀に生まれた写真技法は、どのように芸術の文脈に取り込まれ、表現としての地位を獲得していったのか。

16〜18世紀カメラ・オブスクラ発明。

マックス・ウェーバー「脱魔術化」

1839年、ダゲレオタイプ(銀板写真)発明。肖像画は美しく書くことが重要だった時代。

ダゲレオタイプで写実的な絵は必要無くなった。ゴッホ・モネなどの印象派、つまり世界をどのように見るかが重要だということになる。

ここまでの写真は複製出来ない。

しかし、
1840年 カロタイプ発明。自然の鉛筆(世界最初の写真集)発売。ネガを複製可能な時代に。

ヴァルター・ベンヤミン「複製技術時代の芸術」

メディアと人間の価値観が圧倒的に変わった。

1878年 ゼラチン乾板 「horse in motion」

馬は走る時に四本足全てが地面から離れることがあるのか、を検証。

人間が認識できない情報を、メディア(カメラ・写真)が記録できるようになる。

→人間の価値観の変容

自然は人智の範疇にあったはずなのに、技術により自然が人智を越えたものだと認識するようになる。

1891年 キネトスコープ(エジソン発明)映画鑑賞装置
1894年 キネマトグラフ(リュミエール兄弟発明)複合映写機
1895年 工場の出口(人類初の映画作品

マキシム・ゴーリキー「今のところ私はリュミエール兄弟の発明を称賛はしないが、その重要性を認識している。それは人間の生活と精神に影響をおよぼすことであろう」
メディアや装置が人間の精神を変えてしまう、人類の歴史から見ると稀有な例

写真を撮れれば、メモする必要ない。

その後の世界大戦が、メディア・装置が人間の精神を不可逆的に変えてしまった結果を表している。

一人の人間の声や振る舞いが、多数の人間(マス)に消費されるようになった時代は、人類史上初の出来事。

20世紀前半は写真/映像の世紀、後半はコンピュータグラフィックスの世紀。

写真・動画における証拠能力の消滅。2100年までに。

この世の高精度な映像や写実的な表現は意味が無くなる。

絵画(近代、産業革命)→映像(現代)→魔法(ポストモダン)というパラダイムシフト。

18世紀は個人的な制作、次は工業製品つまり大量消費のデザイン、21世紀はそれらがパーソナライズされていく。

表現の批判性よりも、テクノロジーそのものに関する批判性の方が強くなる。
コンテンツよりも、技法が社会に与える影響が大きい。

ポストモダンの写真では、コンテンツよりもそのメディアに着目するのは最近のトレンドである。

テクノロジと写真は切っても切れない関係だし、表現を考えていく上では今後重要になっていくだろう。

「アートは溶け、アーティストは消える」時代に、僕らに何ができるだろうか。



人気記事ランキング

1、フジx100fの使い方。11個の魅力まとめ [保存版]

2、ビットコインの買い方

3、フォトグラファーが選ぶ、粋なコンパクトカメラ5選

4、物を持たずにシンプルに暮らす

ご案内

トキマルとは?

ポートレート撮影します

インスタ写真販売しています

最近のつぶやき

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です