東京の数少ない良いとろこのひとつは、オーセンティックな焼き鳥屋が点在していることだと思う。
何を持ってオーセンティックと言うのかは、正直難しい。
あまりに要素がありすぎるから、それは”体感”していく中で自ら発見するしかないと思う。
気の置けない仲間と飲む酒も良いが、ひとりで飲む酒もまた良い。
30を越えて、ようやくオーセンティックな焼き鳥屋に入れるようになってきたが、まだまだ身の丈に合わない店も多い。
稀に鉄人のような客のいる店があるが、そのような店はそのような客を持って、店構えができている。
伊達に鉄人がいるわけではなく、鉄人がそこにいるべくして居るのだ。
幸いにも僕が現在暮らす中央線界隈には、オーセンティックな焼き鳥屋は多い。
しかしオーセンティックになればなるほどに、近隣住民以外の客は淘汰されていくように思う。
ビールと日本酒しか置いていない店。お得意さんにしかメニューの振り幅が無い店。メニューすら無い店。完全予約制の店。
信じられないかも知れないが、国立駅界隈には女人禁制の焼き鳥屋さえもある。(店内に看板表示されている)
一体どこでどうやってそのようなルールが作られたのかは謎だが、歴代の経営の中で複雑な事情があったのかもしれない。
共通して言えることは、オーセンティックな店はどこも美味しいということだ。
肉の鮮度、焼き加減、味加減。
これは僕の経験上外れた例がないというだけで、ひょっとしたら不味いオーセンティックな焼き鳥屋だって存在するかもしれない。
先日も良く行く焼き鳥屋に、人を待つあいだ一人で入った。(焼き鳥屋は人を待つ為に存在するのではないかと思う程、人を待つのに適している)
カウンターだけの店で、椅子は無し。
無口で見るからに頑固そうな店主、勝手に運ばれてくるキャベツと味噌を載せたものは、串の置き皿も兼ねている。
客はほぼ独り客で、スーツを着たサラリーマンのおっさんが多い。
それぞれ思い思いに黙々と串を食べ飲んでいる様は、飲食店というよりは葬儀場に近い。
会話はほとんど無い。音楽なんて絶対に無い。
ただ串を焼く炭の音と、皿の音と、注文のセリフだけが呪文のように響く。
オーセンティックな焼き鳥屋を知らない人や、他国の人がこの光景を見たら、一体何が楽しくて必死に焼き鳥を食べているのかと思うだろう。
本当に葬式のようだが、たぶん誰も死んではいない。焼かれている鳥以外は。
エビスビールをジョッキに一杯と、日本酒を一杯飲んだところで、友人が近くに到着したようだ。
スーツなサラリーマンであれば、ジャケットを羽織ることが会計の合図。
だがあいにく僕はスーツは着ていない。
「会計お願いします」
山奥に隠居して長らく人と会話をしていない男から、久々に発せられた言葉のように響いた。
店を出ると雨が降っていた。
早足で歩くと、上着の炭の匂いが雨に混ざった。
Leave a Reply