ブログとプロセスエコノミー

天気が悪いのをいいことに、一日中部屋に籠もって作業していた。冷房なく過ごせるのは急に秋が来たみたいだ。朝の時点で色々とタスクは書き出していたものの、結局写真の整理や本読みや走ることや書くことはひとつも消化できなかった。できたことと言えば数件のメールとブログのプラグインを少し変えたこととと過去記事の整理くらい。それだけで気づけば1日が過ぎていた。最近はずっと外に出ていたからたまにはこういうのもいいかという自己肯定。PCの前に張り付いているのは体にはあまりよくない気がするけど。

写真や映像を日頃扱っているせいか、最近なかなか映画や映像作品を見る気になれない。その分自然と活字に意識が向く。このブログを編集する流れから、ふと昔見ていた人たちのブログが見たくなって幾つか検索してみた。まだあるかな、うおー、ある。ページが見つかりませんの表示や、ブログサービスそのものが終了しているものもあった。10年という歳月は永続的と思われるインターネットの世界でも繁栄と成熟と衰弱を生むようだ。それでも残っているブログを見つけて、懐かしい気持ちでページをめくった。

10数年前のブログは多くが日記のようなものだったことを思い出す。SEOやタグを意識することもなければ、キーワードや収益も考慮しない。それぞれが、自分自身と外の世界の狭間を埋めるようにただ文章をしたためている。まるで精神分析をするみたいに。それが今とても新鮮に思えた。そういうブログは今では少なくなったように思う。スティーヴン・キングが「文章の良いところは時代を超えて物事を瞬時に伝えれること、それはテレパシーなのだ」というようなことを言っていたのを思い出した。15年くらい前のブログと、現在。2000年代のインターネットの雰囲気にしばらく浸かっていた。

今ちょうど尾原和啓さんの「プロセスエコノミー」という新著が話題になっている。情報が溢れテクノロジーは進歩し、商品やサービスそのものが均一化してしまい、いくら良いものを作っても競争力を得にくい時代になった。だから商品を作る過程=プロセスそのものを経済的生態系として捉えるという考えである。新しい言葉をつくるのがうまい尾原さんらしい本だと思ったが、確かに昨今のインターネットにおけるサービスはクラウドファンディングもオンラインサロンも個人的生活をログり続ける系のユーチューブも全て、過程を見せて物語を共有することでそれが商品と同等かそれ以上の価値を帯びるような構造になっている。主軸となる商品やサービスは設定されていながらも、そこに向かう過程そのものがコンテンツ(商品)として成立している。狩りをする人間の仕留めた獲物を頂くのではなく、狩っている姿を見ることを楽しんでいるようなものだ。

それで2000年代のブログもプロセスエコノミーではないかと思った。特にあの個人的な日記のような、ひとり精神分析のようなブログたち。そこではPV数も収益もほとんど考慮されていない。もちろん当時も職業的ブロガーはいただろうが、圧倒的に数は少なかった。それはインターネットがあくまで現実に付随するサブ的な場所だったからだろう。だから自分の中に深く潜るように、あるいは現実の場所とは異なる場所でもう一つのアイデンティティを生きるように、誰もが好き勝手書けた。そしてそのようにして書かれたブログを友人や知人でなくても、まるで友人や知人のように読むことができた。その世界には嫌悪やヘイトもあったかもしれないが、共感や応援や称賛や喝采だってあったはずだ。当時のブログには主軸となる商品は無く、純粋に過程=プロセスしかなかったのかもしれない。

雨が少し弱くなったので外へ出た。街に人通りは少なく渋谷全体が葬式みたいに静かだった。街が静かなのはコロナのせいなのか、雨だからなのかと考えながら夕飯を買って帰った。サンダルの隙間から足に当たる雨が冷たかった。レモンサワーを作っていると田舎の母からラインが来て、ピンぼけした花火の写真が同じような構図で4枚送られてきた。地元の花火大会も過去一番くらいに人出が少ないらしい。そこでようやく、今日がお盆であることに気がついた。