存在論とブツ撮りの共通項

3月30日、水曜日、晴れ。朝から千葉雅也の「現代思想入門」を読む。レヴィナスのハイデガー批判。存在論は哲学の極地であるということ。それに対して、存在するとは別の仕方で、あるいは存在することの彼方へを書いたという部分。哲学ではある概念を生み出すときに既存の言葉では足りないので、どうしてもそのような言い回しになってしまうという解説。クリエイティブ領域の表現であれば言葉にできないものを写真や音楽で表したりするのだろうが、そこに逃げずに言語だけで最後まで持っていくのが哲学なのだろう。今日は筋トレの日で、肩、腕、腹のキャリステニクス。背中が少し痛む。長崎のホテルを予約した後で、ネスカフェゴールドブレンド。お昼は小松菜とシメジで炊き込みご飯。最近はまっている。キムチと卵と納豆も添えた。夕方ごろまた人気映像ディレクターから退職挨拶のメール。もうみんな業界から足を洗って誰もいなくなるのではないかと思う。アガサクリスティーの小説は「そして誰もいなくなった」、是枝さんの映画は「誰も知らない」どちらかと言えば、殺人は起きていないので是枝さんの方かもしれない。気付かぬうちに、僕以外の全ての人がいなくなってしまうような悪夢がすぐ近くにある。というか、ある意味では、もう誰もいなくなってしまったのだ。「これからのクリエイター像は可能性がありすぎてマネジメントが悩ましい」と言ってくれたのが心に残った。夜、恵比寿まで歩いて行って、送別会というか独立会に参加。一緒に働いてはいないが、関連会社で同じ時期に仕事をし始めたメンバー。半分は個人事業主で業種も職種もばらばらなのに一時期同じ会社に関わっていたというだけで不思議な連帯感がある。そして全員癖あり面白い人たち。物撮りの話しになった。存在論が哲学の極地とされるなら、物撮りは写真の極地かもしれない。ハイデガーがナチスに荷担したとされるように、物撮り的な思考の行き過ぎは破綻を招くのかもしれないと、そんなことがふと頭をよぎった。僕が人物撮影者であることは、つらい写真という世界の中において一つの救いとなっている。ファッションもポートレートも相手あってこその写真で、完全に自分の思い通りにはいかないし、その他者性こそが写真のダイナミズムを生むのだから。ハイボールを飲みすぎて、芋のソーダ割を飲みすぎた。しばらく禁酒。

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