こんにちは、常丸です。
ほうきで吐かれてく写真の数々。見せかけの顔ばかり並ぶ雑誌のカバー。こなす事に慣れた果て、かばい合い、discussの放棄。放棄の果ては慣れの果て。その世界に興味が失せ、やはり世界をdocumentして行く方へ。あいつは言った。諦めたら試合終了ですよ。たら、ればの話に興味はない。 pic.twitter.com/NeZJVZVfIT
— 小浪次郎 (@jirokonami) November 9, 2017
「ほうきで吐かれてく写真の数々。見せかけの顔ばかり並ぶ雑誌のカバー。こなす事に慣れた果て、かばい合い、discussの放棄。放棄の果ては慣れの果て。その世界に興味が失せ、やはり世界をdocumentして行く方へ。あいつは言った。諦めたら試合終了ですよ。たら、ればの話に興味はない。」
ツイッターの引用から。
小浪次郎さんは僕と同じ歳の写真家で、東京で活躍した後、2年ほど前かな、渡米し”向こう”で写真を撮っている。
彼の気持ちが率直に響いている。
最近ちょうど、これまた同世代の写真家友人である松下くんとこのような話しをしたばかりなので、驚いた。
同時代性がもつシンクロニシティ。
例えば日本における、赤文字・青文字、あるいはその他のファッション誌で仕事をしている人は、基本的に「ギャラリー」には所属できない。
それはつまり海外からは特に、国内においても「写真家」とはみなされないという意味でもある。
自分の作品に決定的な色のある広告写真家の上田義彦さんでさえ、ギャラリーには所属できない。だから、「916」というギャラリーを自ら構え、自分の写真を展示する。
芸術と広告写真を両立している(ギャラリーにも所属している)最近の写真家は蜷川実花さんくらいではないだろうか。既視感があると思われるが、そういう意味で彼女はひとつ突き抜けた存在なのだ。
芸能・テレビ・広告業界が経済を回している小国において、芸術写真だけで生計を立てるのは難しい。
だから、多くの撮影者は、芸能・テレビ・広告、つまり商業写真で稼ぎを得ながら、後世に残るような芸術写真をプライベートに追求しようと考えている。
誰もがはじめはそのように考えるが、次第にその資本主義の渦に巻き込まれ、溺れ、芸術写真を志す気持ちを忘れてしまう。
それで「割り切ってやっている」などと言いながら、稼ぐためだけに写真をとるようになる。
これからはもう広告写真の時代ではないというのは、誰の目にも見えているけれど、まだまだその残響と余震はゆるく長く続くだろう。
そういえば、写真家の奥山由之さんも、世代は少し若くなるが、商業と芸術のジレンマに生きる人だと思う。
僕は彼が有名になる、つまり”売れる”前から慶応在学中に書いていたブログの読者だった。そこで掲載されていた写真に戦慄を覚え、中毒したように奥山くんの情報を追いかけている時期があった。ブログは、彼の活躍と共に削除されたのだが、その時の写真はテイストこそ変わらないが今より”良かった”と断言できる。
アンダーグラウドの息吹がまだ存在していた。
彼とは実際に会って話しをしたこともあるが、当初「今の広告業界を変えたい。同じような写真だらけの、日本の写真業界そのものを」と紙面上でも語っていた。
その後、ジャケット・雑誌・構内広告・CMと、広告写真を多く手がけるようになり、またひとつのジレンマが浮かび上がってくる。
「同じような写真だらけの広告業界を変えたい」と彼が指していたその”広告業界”は、今や、奥山くんのような写真ばかりになってしまっている。
まるで鏡に映る自分の姿を見るような、写真のアイロニー。
経済は、東京は、もものけ姫のデイダラボッチのように肥大化し、形を変え、僕らを飲み込む。
必要とされるのは、デイダラボッチに拮抗しないオルタナティブな解。
僕らの世代だからもうわかっていること、できることがあるはずだと思う。
それは小浪君にとってはdocumentだった。
僕が日々文章をこうして書いているのも、それらを崩していくオルタナティブなひとつの解と捉えているからだ。
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