私は挨拶の出来ない男だ。
名前は無い。
周りからはただ挨拶の出来ない男、と呼ばれている。
どうしても挨拶が出来ないものだから、歩いていると「やあ、挨拶の出来ない男」と相手の方から挨拶をしてくる始末だ。
先日も、トロカデロのカフェまで行こうと、ニコロ通りを歩いていると、犬を連れた女性が私に話しかけてきた。
そのマダムは話しかける前に犬に対して「挨拶が出来ない男よ、さあ、挨拶をしなさい」と、私の耳に聞こえるくらいの声で言った。
その犬は私に「ワン」と、ひと声、挨拶のようなものをした。
私はそれに返すことも出来ない。
なぜなら挨拶の出来ない男なのだ。
しばらくその場に立ち尽くしていると、「さあ、行くわよ。挨拶の出来ないあなた、ではまた」と言って、女性はその場を離れていった。犬は去り際にもう一度「ワン」と吠えた。
私は犬に挨拶をされて、それに返すことも出来ないことを思い、悲しくなった。
普段はそういうことも無いのだが、その日はなぜかとても悲しくなった。
そのまま涙を流した。
私は挨拶が出来ない男だ。
昨夜降った雨はパリの街を今も濡らしていた。
