2018年3月28日、どこからどうみても、桜の季節だ。
今年も無事に冬を越せたことを幸せに思う。
毎年、次の桜を見れるとは限らないという気持ちで生きている。
芭蕉か、いいえ田中です。
震災を経たことも少なからずその気分に影響しているとは思うけれど、たぶん少し違う。
きっと乾けない世代特有のものなのだと思う。考えればミニマルに暮らすことも、写真を撮ることも、文章を書くことも、歌うことも、全て繋がっていて、今を生きることを強調する為にあるような気もする。
桜はいつでも、別れの悲しさと出会いの喜びをファンデメンタルに含んでいる。
だからあまり予定をたてて「さー花見すっかー」というのは最近の気分ではない。(上京した時は花男と企画側にいたけれど)
予定合わせて花見ってより、勢いで会社辞めてその帰り道に見る桜、とか、殴り合いの喧嘩したあと口切れてるの気付かず帰り道に気づいて絆創膏探したけど持ってなくてふと空見上げたら、桜、みたいな文脈で見る桜が好き。#花見 #桜
— 田中 常丸 (@tokimarutanaka) 2018年3月26日
たかが桜を見るのに、コンテクストを意識するのはただのナルシズムに過ぎないと言われそうだが、それでも文脈が欲しい。
月の初めに、3冊の写真シリーズを制作したが、一度先生方に見てもらい、それから未だに完成できずにいる。
それ以来あまりコンパクトカメラを持ち歩かなくなった。
いつもこの季節なら、何かしら持っていたはずなのに。
それでもいつでも桜はきれいに咲いている。だが撮りたいという気分も、歩きながら後方へ流れて行ってしまう。
夜歩いていると、暗闇の中にぼんやり浮かぶ桃色の花があった。
桜ではない。
一度その場所を通り過ぎたのだが、どうしてもその瞬間的な艶めかしさが頭から離れず、来た道をもどり、持っていたアイフォンで写真を撮った。
椿だった。
椿は桜よりも古く、縄文からあると言われる。
桜と同じ時期に花を咲かせながら、桜の華やかさと人気の影に隠れるように、しかし確かな存在感と艶めかしさを湛えて低いところに生きている。
なんだか、しっくり来た。
理由にならないような理由だが、今年は桜より椿かもなと思った。
あとで写真を見てみると、乱れるままに夜の闇に咲く椿の花があった。
僕のアイフォンがコンパクトカメラになった瞬間だった。

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