Categories
Essay

雨の高円寺と、凛として時雨

 

今日は明るい空からパラパラと雨が降っている。まだ梅雨を捉えるには少し早いが、この頃から夏にかけてのじっとり汗ばむ季節は嫌いではない。そういうことを人に話すと、よく「変わっているね」と言われる。多くの人は梅雨や、じめっとした空気を好まないらしい。僕も別にそのようなものが好きなわけではなく、ただ、そのような季節に起こりうる変化や、春が夏へ羽化する期待感のようなものが好きなのだと思う。あるいは、そのような時期に限って、今まで何かが起きてきたのかもしれない。大切なものを無くしたり、手に入れたり、また、何処かへ旅立ったり、会社を辞めたり。

初めて勤めた会社を辞めたのも、そういえば6月終わりのそんな季節だった。広告会社に勤めていた僕は、朝、その日付けで退職願を上司に叩きつけ、そのままの足で離れた街に新しい家を探しに出かけた。会社の借り上げているマンションに暮らしていたので、会社を辞めると同時に、家を無くすことがわかっていたからだ。

場所はどこでもよかった。たまたま降り立ったのは高円寺だった。その日は朝から、僕の気分とシンクロするように、どんよりとそしてしっかりと雨が降っていた。革靴とスーツを濡らしながら、雨の高円寺を当てもなく歩き続けた。イヤホンから流れていたのは「凛として時雨」だった。鮮やかな殺人とか、テレキャスターの真実とか、Acousticとか、トルネードGとか、傍観、そしてT.K in the 夕景。

音楽というのは、聞いた時や場所、そして気分と空気を全部含んで遠い未来に運んでくれる。僕はそれ以来、そのような曲たちを聞くたびに、あの少し憂鬱な雨の日の高円寺に戻ることになった。T.T in the 高円寺なんて言い換えながら。

「時雨(しぐれ)」とは秋から冬にかけて降る雨のことだけれど、”ちょうどよい頃合いに降る雨”というのが元来の意味らしい。

会社員生活の終焉というなかなかの節目に、ちょうどよく降った音楽の雨。

それが凛として時雨だったのかもしれない。