こんにちは、常丸です。
荒木経惟さんのことで色々落ち込んでいました。写真を撮る気は失せに失せて、逆に仕事写真にここ一週間程集中することができた。
写真関係者ならもう読んだかたも多いと思いますが、この記事が発端です。
https://note.mu/kaori_la_danse/n/nb0b7c2a59b65
さらに水原希子さんもインスタグラムにてコメントを。
http://news.nicovideo.jp/watch/nw3422344
これに関して思うことは色々あります。
荒木さんが行ってきたこと自体はもちろん悪いことだと思う。ただし、気をつけなければならないのは、#metoo運動により、被害者側の集約された側面だけがものすごいスピードで拡散されるということです。制作・権利的な問題であるのに、フェミニズムの問題にすり替えられて語られる場面も多発している。
十数年も”被害”を受けながら、それを続けてきたこと、この時期に及び発表し”アラーキー元ミューズ”と自称することは少なからず一方的な被害関係だけで語れる問題でも無いと思います。
荒木さんは自分の中にアラーキーを作り上げることで、私写真を超意図的・意識的に実践してきた写真家です。それ故、それが日本写真の伝統芸のような地位になったことは良くも悪くも事実です。
そして私達日本の写真家は、20代〜30代は特に荒木経惟の影響下にあると言ってもいい世代です。
今回の事象は、1つの時代の終焉となると感じました。
いわゆる”父殺し”によるパラダイムシフトです。
「私写真」に於いて誓約書やギャラなしでヌードを撮る行為は荒木さんで終焉です。荒木さんは冷徹なのです。彼の写真、言動、行動はすべて荒木経惟が「アラーキー」を作りアラーキーである為の虚像でしかありません。彼の本質はどこまでいっても自分にしか興味がない。
— 脳筋系フィジカル男、その名は (@johan_photo) April 8, 2018
真摯に写真している写真家の友人のツイート。これには全て僕も同意です。
僕自身、私写真はもうできないんじゃないか、ここ数日そのような想いがぐるぐる渦巻いています。
写真は限りなくグレーに近い色を綱渡りするような行為です。
その危うさが、平面の裏側を見るものに想像させ、魅力的なものにしているのは事実です。
ある種の曖昧さこそが写真の良いところであるのに、それらを写真から奪うことで何が起こるのか。それらの魅力を見方にせずして、写真が、それもこの日本という国でできるのか。
今、過渡期であることは間違いありません。
また、今回、”ミューズ”という言葉も独り歩きしています。
英語圏のフォトグラファーは当たり前のように使うこの Museですが、アラーキーの言う”ミューズ”は意味内容が微妙に異なると思います。会話の文脈で自然につかうようなものではなく、例えば薬用石鹸ミューズのような固有名詞的用法、私写真の文脈で繰り返し現れるキーサブジェクトの意味合いが強い気がする。ロバート・フランクの写真に、車、ジュークボックス、アメリカ人がキーとして登場するように、女神、ひとつのキーとしてのミューズだったのではないでしょうか。
今回書けない程センチメンタルになっていたところ、ブログ書くようにと推してくれたのは、僕の初期のミューズ、イマムラでした。
ありがとう。
わたしたちは、前に進まなければなりません。


