欲望喚起装置としての写真

セルジュ・ティスロンは言語化できない体験に象徴化をもたらす行為として写真を捉えたが、昨年人類学者たちの巡検に同行して実際のフィールドワークの中でそのような感覚を改めて得ることができた。写真の身体性が現場に宿るものだとするならば、ティスロン以前の写真論、ソンタグやバルトやベンヤミンは鑑賞に重きを置くので見るという行為性は日常に宿る。つまり写真は現実を複写することで、思い出を記録し、誰かに伝えるコミュニケーションツールとして、同時に欲望を喚起する装置として働く。普段私たちの生活ではそのような写真の純粋的使用がほとんどで、広告コミュニケーションでも、友人とのメッセージでも同じ用法である。

酒飲みが偶然集まっている仲のよいライングループがあって、職業や住んでる場所もばらばらなのだけど、とにかく写真が投稿される。ここでは最近、文字で語るよりも写真で語ることが多い。国内外に散らばった酒のプロフェッショナル、酒の猛者、またはただの輩たちが、今飲んでる酒をただただ投稿しているのだ。そこには酩酊者に見られるインタラクティブな不可能性よりも、カフェインでブーストされた証券アナリストのような正確さとシャープさが散見できる。とにかくストイックという言葉が相応しい。降りかかる苦難や運命を、発言よりもその行動によって克服していく。そう彼らはたぶん、ある意味でストア派なのだ。

その仲間には話していないけど、投稿された写真から喚起された欲望を反射的に再現するという試みをしている。自分が写真に動かされることによってどのように変態するのか。例えば今日は昼くらいに焼きそばとビールの写真が投稿されて、猛烈に焼きそばを食べたくなったのでその欲望のままに近くの焼きそば屋をGoogleで検索して出かけた。渋谷の片隅にあるそのお店は、入ってみると競馬中継をしている店で、つまり勝負師のたまり場だったのだ。ネット上では全くわからなかった。店員と客は全員顔見知り、初来店で全く競馬をしない僕は肩身狭く焼きそばとビールを注文して、ボックス買いした競馬初心者の顔をして中継を見ていた。画面の中を走る馬は、美しかった。写真がもたらす欲望と、偶然性。自分の意志の外部からもたらされるものに沿って行動することで得られる新しい体験。ラインの写真がなかったら、この店に行くことはおそらく人生で一度もなかっただろう。

その後友人と合流して、アイリッシュパブでキルケニーを飲み、三件目の焼き鳥屋でご飯を食べて本日終了。なんとなく日曜らしい一日であった。勝負師たちが真剣に新聞と中継を眺める顔が強く印象に残っている。

– https://linktr.ee/tokimarutanaka