写真をやっていると、だんだんとそれがフィジカルになることに気がついた。ヨーガの鍛錬者が日々一連の動作をこなすように、あるいは筋トレジムに通っている者が3日おきに一通りのメニューをこなすように。
写真をやり始めた人は、まずポートレートを撮りたがる。それは僕の場合もそうだった。それは写真への興味というよりも、周りの女子や人への興味が先行しているからだろう。そして次第に人間そのものを捉えたいと思うようになったり、服を魅せたいと思うようになったり、感情を表現したいと思うようになったりする。
女の子を撮りたいがためだけに、ずっと写真しているおっさんも多くいる。そしてそのハイアマチュアの層が日本のカメラ業界を長年支えてきたし、撮影モデル等の周辺のビジネス体系を形成してきた。その市場は世界的にみてもなかなか大きなものだと思う。
さて、写真をやり始めて、被写体があるいは撮影法がどのように変化していくのかというのは、僕の大きな関心の一つである。それをひとくくりに”スタイル”と呼ぶならば、スタイルが変化する者と、同じスタイルを貫く者がいる。
年月の経過によりスタイルは作られるものだから、初めて数年でそれが現れるひとはほぼいない。稀にいるが、それを世間は天才と呼ぶ。
写真って入り口を通ってその中に潜ると、とてつもなく広くて、深くて、危険で、魅惑的。にもかかわらず、その入り口の部分もまたとてつもなく広い。だからその入り口に溜まりやすいんです。ぼくのいう「写真のための写真」とは、おもにその入り口で行われてると言っていい。
— 笠井爾示 (@kasaichikashi) March 29, 2017
昨今は写真ブームだけれど、見かけるのはこの笠井さんの言葉のように「写真のための写真」ばかり。特に「フィルム写真をつかうこと」がひとつのファッションとして扱われいるのをみても明らかで、そこには何もない。
関心があるのは、職業として写真を撮りながらも、自らの写真表現について考えてる人。5年、10年と続けていて、その中でのスタイルの変化の話を聞くととても面白い。それは自分自身の写真を考えるきっかけにもなる。
上記の笠井さんに、ナン・ゴールディン。森山さんにアラーキー、そして晩年の中平卓馬。
思えば、これらの人がある意味においてフィジカルに写真していたことを考えると、結局そこに行き着くのかなと思ってしまう。そして10年そこそこやってきた僕の写真も、そちらに寄りつつあるのではないか。いや感覚としては、写真するには”そちらに寄らざるを得ない”のではないかという考えが、今僕を強く捉えている。
この気持は今だけなのかもしれないし、これからどう変わっていくのか自分でも全く予想がつかない。予想がつかないからこそ、それを自分で確かめたいと思うし、確かめるためには写真するしか無い。いつもそういうモードである。
写真で写真を超えるには、一度は写真を捨てなければならない。それはわかっているし、ぼくにとっての偉大な写真家たちもみなそう言っています。ただ、彼らのように、それを的確に言い回す術がまだ見つかっていない。
— 笠井爾示 (@kasaichikashi) May 5, 2017
笠井さんも見つかっていないと知ると、少しホッとする。しかしそれは、写真が本当に沼であることの現れでもあると思うのだ。
そして、どうでもいいけれど、#写真好きな人と繋がりたい というタグに嫌悪感と気持ち悪さを抱く。これは僕の好きな写真家やフォトグラファーがまず使わないものだし、世界はそういう種類の物事に今溢れている。以下も同じようなもの。
何度も言うようだけど、俺カメラマンだから被写体募集っていうやつ。募集することがダメなんじゃない。募集するなら、これこれこういう企画、作品の為に被写体が必要です、だから募集しますならわかる。ただ募集は奢り以外の何にでもないよ。あなたを撮りたい、撮らせてください、が筋ってもんでしょう
— 笠井爾示 (@kasaichikashi) June 2, 2017
”被写体募集”もそう。ひとつ分かるのは、これらの撮影者が撮影した写真には何らかの共通項があるということ。
そのある種の”気持ち悪さ”はどこからくるのだろう?
この問いも、現在の写真表現を考える手がかりになるのかもしれない。
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