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あるいは、作家性の消失について

 

専門外のことを表に出せば出すほどに、個人の作家性は消失すると考える。”作家性のようなもの”と濁し言い換えても良いかもしれない。

それは例えば、写真家(とされる者)がブログで日々食べたものや行った場所をるんるん気分で記すことは、アーティストであればある程にあり得ないということである。

その他にも、画家(とされる者)が歌を歌ってみたり、料理人がパフォーマーであったり、イラストレーターがモデルをやってみたり。

しかし自分が、あるいは個人が、アーティストであるという判断は曖昧なところがある。もちろん賞や、コンペで世間的な評価を獲得している場合は分かりやすい。だがそのような外部評価の蚊帳の外にいるような個人は、自分のことをアーティストだと思っているナルシストである場合が多い。

また、相性の良い専門性というのも一部存在する。例えば歌とダンスは、本来異なる表現ながら、身体性というその点で相性が良い。専門性は組み合わせることで個性となる。能力を掛け算することで、100人に一人の存在になり、1000人にひとりの存在になり、10000人にひとりの存在になり得る。それらは昨今のインフルエンサブームを見ても一目瞭然だ。さらにシェアエコノミーやSNSが個人をブーストできる状態にした。

そこでまた立ち戻る。

あるいは、ジョンレノンやウォーホルがブログで「実はあの曲、ほんとはね」とか「あーもう絵描くのめんどくせー、あのクライアントが..」なんてやっていたら彼らはアーティストであり得たのか。

僕らのフィールドであれば、カルティエ・ブレッソンやロバート・フランクが実はブロガーでしたなんてことが判明したりすることが。

写真と文章は相性が良い、とはよく言われるけれど、それはフォーマットとパッケージの話であると思う。やはり、アーティスト(作家)にはある種の匿名性があり、メディア表出の限定が必要なのではないだろうか。それはまるで謎に包まれた正義の味方のような雰囲気で。

ただ、最近の世界を眺めてみると、ますます個人の匿名性や、メディア表出の限定をレギュレートすることは困難であることに思える。むしろアーティスト(作家)を目指していて、ある一定のレベルに到達していない(アーティスト性を獲得していない)個人にとっては様々な面で不利な社会になっているのではないだろうか。だから多くの者は掛け算によるリスクヘッジで意図的にせよ、あるいは意図的でないにせよ作家性を消失させる。

先日、ひょんなことから僕が尊敬する写真家の方のロケハンに同行させて頂き、夜の怪しい工業地帯を二人で歩き回った。それは僕にとって、とても貴重な体験で素晴らしい時間だった。主に写真のことや仕事のこと、写真の仕事のことについてひたすらざっくばらんに話したのだが、その中でも同じようなことが話題にあがった。

おおきく、作家性の消失について。

僕個人の話で言えば、「ブログ、いいんじゃない」という言葉にも救われた。

思えば、好きな写真家が多すぎて、好きな写真家は?と聞かれてなかなか答えられない性分だ。写真そのものにはまり込みすぎた感覚はある。そして変わらず好きなのは藤代冥砂さんだと思い当たる。藤代さんは写真家であるが、写真家でないような。そしてブログも文章も書いているし、時代により写真以外の様々な事に積極的に取り組みながら、写真家然としていないところがある。だが写真を発表することをやめない。

なんとなく、僕はそちら側に立ちたい。

いや、もうそちら側にしか立てないんじゃないかという気持ちが生まれてきている。