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フォトグラファーのポートレート

 

撮影者の写真を撮るというのは、案外難しい。サッカーで言うところのフォワードとフォワードがぶつかるような、あるいは草野球で言うところのバッターボックスに入ってみたらピッチャーマウンドにもバッターが立っていたような。そんな気まずさがある。

おそらく、フォトグラファーは撮る側であり、被写体ではないという無意識のスタンスがあるのだと思う。たまにセルフポートレートの人など、撮る側にも撮られる側にも自在に行き来できる人が存在する。シンディー・シャーマンほどになれば、自我の中の他の人間を撮影しているので、それはつまり他者で、一見セルフに見えるがそうでない状況なのだろうが、一般人でそれをできる人は凄いなあと思う。あるいはギャルだなぁと思う。よって、カメラマンやフォトグラファー、あるいは職業的写真家は、他人の写真を撮りはするが、自分の写真は意外と残っていないという状態となる。

自分と次元やフィールドが圧倒的に違う写真家から撮られる場合は、そのようなことを気にする暇はない。撮られる環境が既に整えられている時点で、撮影者としての権力や地位や経験値が圧倒的なのだ。

僕は実はライアン・マッギンレーに写真を撮られたことがあって、それは彼が来日していた時にとある企業か開催したイベントでの一瞬の出来事だったのだが、その時点で撮られる環境が整えられていたと言える。フラっと、上下ピンク色のセットアップスーツでやってきて、heyって少し挨拶してパシャパシャと。その時のプリントは今でも何処かに宝物のように持っているのだが、良い写真か、あるいはライアン・マッギンレーっぽいかと言われればそんなことはなく、変なTシャツを着たつまらない自分の顔がそこにあるだけなのだ。そこには花火も無いし、裸も無い。

余談だけれど同じ来日のタイミングで取材したのか、全く同じ姿のライアンをホンマタカシさんがポートレートしている写真が残っている。それを見ると僕はいつも、ああ、ライアン・マッギンレーに写真を撮られたんだった、と感慨深く思い出す。実際に撮られた写真よりも、他者が撮影した撮影者の写真を見て自己を認識するというのは、なかなか興味深い。

写真家に撮られるということは、最も近い位置で、彼らの仕事を見ることができるということであり、とても勉強になる(観察する暇と余裕さえあれば)スタイリストやモデルやヘアメイクが写真家に転向しがちなのは、おそらく最も近くで写真家の仕事を見ているからというのはひとつの理由であろう。

僕も幾つか写真家のポートレートを撮影させて頂いている。

chihiro lia ottsu
chihiro lia ottsu

これはたまたまスタジオに入ったら、セルフを撮影しようと意気込み既にバッチリキマっていた大塚氏がいて、ただシャッターを押したもの。
僕は何もしなかった。ただ、押しただけ。

「誰かが押さなきゃ、写真は写らない」

シンプルに、そんなことを思い出したのだった。