写真を始めて早10年、ポートレートは一貫して僕の中にあるテーマです。
しかし、良いポートレートとは何なのか?
これだけ写真が溢れている現在です、職業的カメラマンでなくても、一度は考えたことがあるのではないでしょうか。
僕の答えを初めから言うと、それは簡潔に、「家族写真のような写真」です。
ただこれは主にフランス・ドイツ・イギリス・アメリカで言われていることで、日本では当てはまらない気もします。
なぜなら、世界的に見てもトップのカメラ産業を有する国であり、写ルンですブームに始まり、家族写真が国の発展と共に撮られてきた歴史があるからです。そのような経緯から、「良いポートレートの条件」みたいなものが、良くも悪くも少しズレて解釈されている現状があると考えます。
#ポートレート や #被写体募集 に見られる写真群は、嫌悪感さえ抱いてしまう程にこのズレを助長させています。
カメラ産業が発展しすぎた為に”機材のスペック主義”で写真が語られるようになり、機材の性能を最大限に引き出した人物写真が良いポートレートであるという基準を生み出している気がしてなりません。写真史的コンテクストの”model”ではない”モデル”が、個人撮影や、撮影会で、カメラ好きのおじさんたちに取り囲まれている状況が、正にそれを象徴しています。
決してそれらの写真が悪いとか良くないというわけでなく、その”世界”は非常に成熟した文化を持っていると思います。
他の国から見ても、稀有で珍しいものとして、新鮮に映る部分もあるでしょう。それらをコンセプチュアルに昇華できれば、作品として出せる機会も増えると思います。ただそのレベルに持っていけてる写真はまだ少ないように感じます。
恋人により自らの写真をアッデートしていく写真家の新たな作品が見れそうだ。
一人と、彼氏彼女、あるいは妻・夫、そして子供のいる撮影者の絵は全然違う。
一人でしか撮れない写真もあるのだが、限界がある。写真は鏡なのでセルフポートレートにしかなり得ないからだ。#写真 #ポートレート
— 田中 常丸 (@tokimarutanaka) April 5, 2018
端的に言うと、カメラ好きですって写真撮ってるやつより、男が好きです女が好きですって、人と付き合ってるやつの方が良い写真が撮れる。撮れてる。#写真 #ポートレート
— 田中 常丸 (@tokimarutanaka) April 5, 2018
機材を愛してるのか、被写体を愛しているのかは、写真を見れば結構わかります。
常に持ち歩いているiPhoneのお陰で、家族写真的な写真が随分撮りやすくなりました。
生活の文脈の中で、自然に撮られたポートレートに心が動かされるのは、見るものがその文脈外にいながら普遍的に通じる地下の水脈のようなものに触れるからだと思います。
商業写真でも、そのようなスタイルを適用できる写真家は色んな意味で強いです。
クラシックで商業的なポートレートでありながら、そのような家族写真的要素の入っている古典をセレクトしてみました。
ポートレートを学ぶ古典3冊+2冊
「Woman in the Mirror」 by Richard Avedon
ファッションとポートレートの両領域に渡り教科書とも言われるような巨匠のポートレートを集めた写真集。
「Irving Penn Portraits」 by Irving Penn
アヴェドンと同じく古典的なスタジオポートレートの巨人。アヴェドンが動なら、ペンは静。スタジオでは発する言葉も少なく、音楽も一切かけなかったことで知られる。多くのフォロワーを生み出し、現在ではInez & Vinoodhがその伝統を継承しアップデートしている。
「ポートレイト 内なる静寂」 by Henri Cartier‐Bresson
ストリートスナップの巨人として知られるブレッソンだが、ポートレートも秀逸。瞬間的に変化するストリートの状況を、被写体の表情に持ち込み、素晴らしい作品を残している。ライカの50ミリで撮られたポートレート写真群は、「家族写真的」ポートレートの源泉である。
「Go-Sees」by Juergen Teller
このブログでも何度か紹介してるヨーガンテラーの写真集。古典という程古くは無いが、ヨーガンは、”家族写真的”を代表する写真家だ。トップメゾンのキャンペーンであろうが政治家・著名人であろうが、自分の息子や家族を撮影する際のスタイルと全く同じである。35ミリレンズに、サッカーT、ランニングショーツという装いも変わらない。彼は”家族写真的”でなく、意図的に家族写真をそのまま商業に持ち込むことに成功した唯一無二の存在だ。
「The Heart Land」 by Mark Borthwick
こちらも古典と呼べる程古くはないがマーク・ボスウィックの一冊。宝石のような家族写真的写真を撮る人で、そのスタイルは初期から全く変わらない。随分後になって登場したライアン・マッギンレーや奥山由之がフィルムカメラを感光させて撮る手法はマークが元ネタになっている。ライカ35と50ミリで、ヒゲモジャで自然を愛す仙人のような人柄も、出て来る写真とピッタリ一致している。
個人的なポートレート観は、色んな場所を行ったり来たりしながらも、現在上記したものに落ち着いています。
それは写真を始めた頃に覚えた感覚でもあります。
そこで留まるのではなく、アップデートしながら新たな表現を目指すことを忘れてはならないと思う今日このごろです。

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