他人の飲み会の写真ほど、つまらないものはない。
第一に、写っているのは知らない人だし。日々世界中で撮られ続けていて、写真的に興味をそそるものが少ないし。
アレック・ソスのような天才肌かつ論理的な写真家であれば、一夜の飲み会をコンセプチュアルに描写することも可能かもしれない。彼が一度の旅行でサクッと写真集を編成するように。(それはサクッとに見えて綿密なリサーチと、計算と計画に基づいている)
コンセプチュアルと記録を考えていくと、果たして写真における”作品”とは、何だろうかという壁にぶつかる。アートにたどり着くずっと前に、見ることと見せること、フレームと媒体、被写体と意味内容、そしてストゥディウムとプンクトゥム。
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僕は今夜、関係性の有限性について考える。
マツダというある組織のある部分では先輩よりも遥かに優秀と思われる後輩と共に、三軒茶屋のデニーズに取り残されていたあの日。
それから2年が経ち、組織の後輩たちは次々と増え、僕たちはわずかに歳を重ねた。
僕は組織の一員でもなければ、どこの先輩でも後輩でもない。
ただ一つの有限的な関係性を介して、日々に感謝しながら、今夜下北沢を中心に。












