写真と文章の生成のリズム

日々撮影している写真。PCに取り込むまでどのような写真を撮ったか自分で忘れていることがある。忘れているほうが良い写真が撮れていることが多いのはなぜか。もちろん主観的なもので、見る人にとってはどうでもよいことかもしれない。逆に撮った写真を覚えている時は、撮ったものの印象がとても強い時か、撮る枚数が圧倒的に少なかった時かのどちらかである。撮影した写真についてもっと説明したほうがよいのか迷ったまま8ヶ月が過ぎた。最初は文章が先か、写真が先かといったようなことを考えていたが、今ではどちらともなく自然と始められるようになった。それも終わりがあるからだと思う。日記だけでなく、あらゆることには終わりがある。終わりがあると、それはもうふっきれたような感じで言葉が自動的に走り出す感じがある。エクリチュールの生成。文章は半自動的に生成される感触があっても、写真はシャッターを押す押さないという区切りがはっきりとしている。撮る直前まではフレームに入れるか入れないかのゆらぎがありながらも、押すか押さないかにはデジタル的な二分論が確かにある。撮った瞬間に一度終わっていながらも、それは文章とはまた別のリズムを、終わることが始まりの支点になるような連続性を生成している。