気づけば同じモチーフを繰り返し撮っている。
毎日写真を撮っていると、フィルムブックやハードディスクやあるいはクラウドに、どんどん写真が溜まっていく。
それらをまとめて作品にするわけでもなく、写真展をするわけでもなく、友人に”ほら”と見せるわけでもない。(もちろんすべての写真がそうとは限らないが)
写真を行為として、それは”道”と名の付く習いごとのように、ひとつの作法として考える。日本の写真史の中には長からずもそのような時代があったかも知れない。
撮られた写真そのものではなく、撮られるまでの動作や行い、振る舞いなどの過程こそが本質であるかのように。
しかしそんなの馬鹿げている。写真は写真なのだから、装置(カメラ)を介して出てきたものこそが結果であり、本質であるに決まっている。
決まっている?
果たしてそうだろうか。
ならばなぜ、人は同じ観光地に出かけ、示されたような同じ撮影スポットで、同じようなポーズで写真を撮るのか。
なぜ、久々に再開した仲間と、とりあえず撮っておくかとぎこちなくも笑顔をつくるのか。
なぜ、誕生日やクリスマスにいつもと同じようなケーキが出てきたとき、同じようにアイフォンをかざすのか。
なぜ、みんな写真を撮りたがるのだろうか。
写真はあらゆる営み(広く芸術)の中で最も作者が多いジャンルである。
音楽はプレイヤーよりもリスナーが多い。絵画は画家よりも美術館の来場者の方が多い。料理はシェフより店に足を運ぶ客の方が多い。
写真だけは鑑賞者よりも、撮影者の方が多いのだ。それも圧倒的に。
”私”という壁を超えた時、写真はコンテンポラリーとなりアートに成り得る可能性を獲得する。
しかしその壁を超えた瞬間に、多くの場合、撮る理由を損なってしまうのもまた写真ではないだろうか。
先の”なぜ”の問いかけの答えはその中にあるような気がしている。
12月の気配、
何が嬉しくて窓越しにビールを掲げるのだろう。このパターンは相当出てくる。これは自撮りのようなものなので、片手で持ってチャっと撮れるカメラが必要になる。ビールを撮るためにコンパクトカメラを使うのかもしれない、とさえ思うくらいに。撮りすぎだろ。
夕焼けも朝焼けも、撮ってしまうもののひとつだ。世界中のあらゆる場所で、いったい日々どれほどの朝焼けと夕焼けが生成されているのだろうか。何かの統計で世界で一秒間に押されるシャッターの数は20万回って出ていましたね。つい最近。
気づけば繰り返す。
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