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Essay

儀式としてのひげ剃り

朝起きて、ひげを剃った。

友人の結婚式があるわけではない。特に何かがあるわけでもなく、ひげを剃った。しばらく剃っていなかったから、そろそろ剃り時だと感じていたのか、九州に大型の台風が近づいている緊張感からなのかはわからない。母から、近くのホテルに避難しようと思ったがどこも空いていないので避難所に行くというラインが来ていた。今まで台風で避難した過去があっただろうか。小さなころから台風とは隣り合わせでいくつもの台風を乗り越えてきたが、二重雨戸を閉めて凌いで、たまに雨漏りがあるくらいで特に大きな問題はなかった。宮崎でも、どこもホテルは一杯だと聞いた。気圧とスペックと進路を見ても今回はかなり危険なのだと思う。どうか無事でいてほしい。

実家にはいつも貝印のゴールドステンレスがあった。父が、(たぶん祖父も)使っていたものだ。の中学くらいの時に、はじめてそれで髭を剃った。どうやればいいかわからず、それでもなんとなく無事に剃れて、不思議な感じがした。

その後も、米国ブランドの4枚刃とか5枚刃のカミソリで髭を剃り続けた。一時期、充電式のシェーバーを使ったこともあったが、音や充電の手間や大きさや剃り心地に満足が行かず、結局T字に戻ってしまった。僕はその時、T字で髭を剃る感覚が好きなのだと気がついた。コーヒーを淹れるように、髭を蒸らすところから始まって、一連の手順に沿って進められるその行い。シェービングフォームの香りと、手に響くじょりじょりとした感触。

スティーブ・ジョブズが毎朝鏡を見て「もし今日がお前にとって最後の日だとしたら、今日やることがお前のやりたいことか?」と問いていたように、鏡に向かって同じように問う。もしその答えがNOなら、今すぐ何かを変えなければならないというのが彼のルールだった。凡人にはとても厳しく難しいルール。しかし何も変えることができない時、唯一変えれることがある。それは、自分の顔から髭を無くすことである。

村上春樹は「1973年のピンボール」の中でジェイという登場人物に「どんな髭剃りにも哲学はあるってね、どこかで読んだよ」と語らせる。イギリスの小説家サマセット・モームからの引用だ。春樹はこれを、どんなに些細なことでも続けていれば、何かしらの哲学がそこに生まれると言い換えた。哲学はもっと噛み砕いて、自分なりのモノの見方とでも言えるだろうか。そのあとで、「走ることについて語るときに僕の語ること」というランニングについてのエッセイ書いた。

タクシードライバー」のロバート・デ・ニーロは、どんどん狂って行き最後にテロを起こす直前に、髪を剃った。そのモヒカン姿だけがイメージとして独り歩きするくらいに鮮烈だった。それをオマージュする形で、堀江貴文はライブドア事件で出頭、収監前に髭を剃り頭をモヒカンにした。ロバートも堀江も、おかしいのは俺じゃない、社会だ、というメッセージをビジュアルで表現したのではないかと思う。言葉が通じない世界では、イメージだけが無言の言葉となる。

東京では昨日から、バケツを引っくり返したような雨が降っては止んで、変な天気だ。今朝も降ったかと思えばまた晴れてきた。

しかし髭だけは剃れているので、今日は何かできそうな気分だ。

あるいは、もう髭を剃ったから仕事をした気になって、このまま何もしないかもしれない。でもどちらでもいい。

たとえ全身脱毛したとしても、ひげ剃りという儀式を行うために、首から上の毛は残しておこうと思う。(できれば髪の毛も残ってほしい)

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