そうめんノイローゼ

こんにちは、ときまるです。

どういうわけか、家に一キロのそうめんがありました。

実家から送られてきた記憶は全く無いのですが、それはなぜか長崎県産のそうめんでした。

誰かが意図的に置いていったのか、それとも忘れていったのか。(人は財布は忘れても、そうめんは忘れない)

僕はしばらく(1ヶ月くらい)知らないふりをしていたのですが、何も無い部屋でそうめんの存在感は日に日に増していっているようでした。

最小限のモノで生活しているので、何かが増えるとすぐにわかります。

あっ、そうめんがあるな。と存在の認識はやはり早かったです。

しかし、それがそうめんなだけに、すぐに捨てることはできませんでした。

いつか食べるかもしれない。震災が起きて危機的状況に陥った時、このそうめんが命を救ってくれるかもしれない。

恥ずかしながら、そうめんをどこかで頼りにしている自分がいました。

一キロのそうめんは、まるで生まれた時からその場所を動かないモダン建築のように、ずっしりと部屋に腰をおろしていました。

このアパートが建てられる前から、ここにいるのではないかという貫禄さえ窺えました。

そのようにして、そうめんといくつもの夜を過ごすうちに、そうめんが僕の無意識に入り込んできているような気がしたものです。

頭の中がそうめんで一杯になることは、生活にも仕事にも影響を及ぼしかねません。

そんな気がしたものですから、これは、このままではいけないと思い、食べることを決意しました。

二日前のことです。

相手は一キロのそうめんですから、一筋縄ではいきません。

しそ、ねぎ、しょうが、ラー油を買い出し、ついでにビールなんかも買って、周到に準備を進めました。

そばつゆのようなものは、冷蔵庫にあったような気がしたものですから買いませんでした。(あとでこれが足らずに、困ることになります)

湯で時間は1分30秒。

パスタに慣れている身としては、これは短すぎると感じました。

博多ラーメンで言うところの粉落としとまではいかないにしても、ハリガネのタイム感じゃないかと。

20束ある中の、6束程を茹で、ひたすらそうめんを食べました。

とても美味しかったです。

しかしこれは「夏」に食べるものだなと思いました。

一キロ全てを食べきることはできなかったのですが、つゆも無いので、残りは処分しました。

”仕事仲間や友人に配る”という案も、あるにはあったのですが、なにせ細く脆いものですから、ぽろぽろと簡単に折れ、持ち運びが大変だから不可だという結論に至りました。

まとまっていると、モダン建築のようにずっしり丈夫なのですが、ひと束、あるいは一本になると極端に脆くなる。

それがそうめんです。

今、家からそうめんが無くなり、生まれ変わったような清々しい気持ちです。

悩んだけれど、思い切って食べてよかったなと思っています。

みなさんも何か悩んでいることがあれば、なるべく早く解決の手を打つ行動をしてみてください。

それが直接の解決にならなくても、少しでも不安要素を無くすことはできます。

不安要素を小さくしていけば、前に進む力が次第に湧いてきます。

いくら時間がかかっても、予想していた場所と違うところにたどり着いても、目を開けてしっかりとその景色を受け止めることです。

もしも近くに川か”雨どい”があり、そうめんが流れてきたなら、箸で掬って食べることです。

その時の為にも、そうめんのつゆだけは、しっかりと確保しておく事。

今僕が言えることはそれくらいです。

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