向日葵が枯れて、夏が終わったのだと思った。
部屋に花を活けたらなら、活けたままにしておいて、気が向いた時に写真を撮っている。
撮るタイミングは、光がいいなと思った時や、枯れ具合が調子いいなと思った時だ。
生花の変化は思うより早くて、二日に一回は異なる表情を見せる。そんな花の表情をみていると、自分の身体も日々死んでいっているのだなと、少しセンチメンタルな気分にもなる。
活けたばかりのパリッとした、生命力溢れる姿も美しいと思い、枯れてきて萎れた姿もまた良いと思う。
人間も年齢ごとに各々の美しさがあるように、花にもそれがある。



花を撮るという行為には、少しの女々しさと、孤独さと、テクニカルさと初学的稚拙さが混在するように思う。
アーヴィング・ペンやメイプルソープなど、多くの偉大な写真家が花を撮ってきた。
誰でもが撮れるモチーフでありながら、どこまでもナルシズムの範疇に回収されるその絵に、ある種の嫌悪感と達成感のようなものがいつも混ざる。
花瓶の水が無くなるまで、そのままにしておいて、最後は黒バックで撮影することが多い。
思えば自分なりに、同じ部屋に生きた時間を火葬・埋葬する代わりとして写真にしているのかもしれない。
部屋に花が無くなって、次の花を迎えるまでの時間は少し悲しい。
その時間の長さがどれくらいになるか、いつも自分ではよくわからないからだと思う。