Tag: 写真論
ツイッターで写真論
写真論というほど大げさなものでもないのですが、ツイッターで写真のあれこれつぶやいています。
水平がピシッと撮れた写真は、確かにカッコいいけれど、説明的で、商業写真的だ。
— 田中 常丸 (@tokimarutanaka) April 19, 2020
今は後処理でいくらでも水平がとれるからこそ“現場で手持ちで最大頑張った感”みたいなアマチュアリズムの宿る写真に親近感と愛着を覚える。
それは荒木/森山育ち過ぎるだろうか?#写真 #35mm pic.twitter.com/Oij01XJATV
水平の話をした後で、ホンマタカシさんのこんな言葉を思い出した。
— 田中 常丸 (@tokimarutanaka) April 20, 2020
「ヨーロッパの学術機関でアカデミックな写真教育を受けるなら、西洋写真の文脈でとことん学ぶほうがいい。
どうせ日本に帰ったら、私写真に戻るんだから」
思うに写真は、それを行う場所や土地による強力な力が働く。
様々なカメラやレンズを使ってきて思うのは、少々乱暴な言い方になるけど「写ればなんでもいい」ということだ。
— 田中 常丸 (@tokimarutanaka) April 18, 2020
“自分に合った焦点距離を〜”みたいな言説も今では無意味に思える。
28でも35でも50でも、それぞれに良さがあるし、苦手意識が逆に功を奏することも。#写真 #35mm
写真が特殊技能だった時代はとうの昔に(それはおそらくiPhoneが出た2007年頃)に終わっている。
— 田中 常丸 (@tokimarutanaka) April 17, 2020
フォトグラファーはフォトグラファーであると同時に、他の分野のスペシャリストである必要が出てきた。
抜群の山岳写真を撮る写真家が、写真家である以前に優秀な登山家であるように。#写真家
そういう意味で写真が主役であってはいけない。優秀な撮影者はこの点を認識し、十分に心得ている。
— 田中 常丸 (@tokimarutanaka) April 17, 2020
本質はいつも別のところにあって、主役は常に被写体で、記録という形式を保持しながらその撮影者しか踏み込めない視点に常に立っていること。
それが今後写真を撮る条件となる。#写真
ファイルサイズは、時間とディスクスペースを食うのでアウトプットされる写真に対して割に合わないことも覚えておこう。(それがグルスキーの写真のように2億で売れるならRAWで撮る価値はある)
— 田中 常丸 (@tokimarutanaka) April 12, 2020
簡単にいうとRAWは金がかかる。
Jpegのサクサク感になれると、写真が生活に寄り添うようになる。
フレーミングは写真家の仕事で、トリミングはデザイナーの仕事。という考え方もあれば、トリミング含めて写真家の仕事だという考え方もある。
— 田中 常丸 (@tokimarutanaka) April 12, 2020
いずれにせよ私たちが見てきた歴代の作品はほぼ全て(フランクもブレッソンも)トリミングされたものだ。
“トリミングされうる”事が写真のもつ自由さである。 pic.twitter.com/H2brGrvpWv
もうひとつ言うと、トリミングしないことはハードコアな35mm信者のマッチョイズムに捉えられがちだけど、レンズ感(画角感)を楽しむには最良の方法だ。トリミングするとレンズ感は失われる。
— 田中 常丸 (@tokimarutanaka) April 12, 2020
それはちょうど、ギタリストがそれぞれのギターの個体差を楽しむのと同じ種類の享楽である。#写真 pic.twitter.com/9WaSXrAww7
ノートリ信者に加え、「jpeg撮って出し信者」も存在する。
— 田中 常丸 (@tokimarutanaka) April 12, 2020
僕はアサインメントはRAWが多いけどjpeg優先も使う。クライアントの求めるところに速度と品質を持って着地できる方を内容に合わせて選ぶ。
スナップは最近はjpeg。m10のトーンはハイレンジが気に入っている。#Leica #leicam10 pic.twitter.com/bn22GH6F86
そしてこれまたストリート界の奇人でGarry Winograndってファンシーなおっさんいるんだけど、ガリーがジョエルにお昼休みにライカをちょこっと貸したのが使うきっかけになっている。
— 田中 常丸 (@tokimarutanaka) April 9, 2020
つまりガリーがいなければ、ジョエルは今、全く違う写真を撮っていたか、あるいは撮ってないかということなんだ。
140字というコンパクトさは思考の”有限化”がなされて良いです。
「ごちゃごちゃ言ってねえで、いいから撮れよ」
と、いままでの先生方の声が聞こえてきそうです。笑
写真撮りにいってきます。
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窓に向かって話すように
こんにちは、ときまるです。
コロナの影響で、街に人が少ないです。そして学生が多いような気がします。
多くの企業で在宅ワークやテレワークが実施され、イベントやライブにも中止要請が出されています。
薬局からはマスクが消え、次いでトイレットペーパーが消えました。まるでオイルショックのようで昭和かよ、と思いましたが、いいえ、令和でした。
僕の予想では、次はコンドームが消えると思います。なぜならみんなが家に引きこもっているわけですからね。
ミーティングや打ち合わせもオンライン上で行われることが多くなり、PCのディスプレイに向かって話す機会が増えました。先日は仕事でとある発表をする機会があり、大きなホールで誰もいない客席に向かって語りかけました。とても虚しかったです。
ディスプレイや誰もいない客席に向かって話かけるのは、暖簾に腕押し、あるいは豆腐に踵落としでしょうか。前に発したエネルギーが、どこにも行き場が無いのです。
それはまるで窓に向かって話すように。
突然写真の話になりますが、ジョン・シャーカフスキーというMoMAのキュレーターが1978年に「Mirrors and Windows(鏡と窓)」という展覧会を開催しました。
写真に詳しい人であれば知っていると思います。この展示を機に、写真が現代美術の領域に一歩踏み出すことになりました。写真史的にもタームポイントとなる展覧会でした。
展覧会カタログ↓
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内容はその名の通り、当時の写真家を「鏡と窓」に分類して展示するというものでした。
自分の内面を知るために使われる写真は”鏡”
外で起きていることを知るための写真は”窓”
という分け方です。
分けるのは良くないとか、作家の意図に反して分けられたとか、当時は様々な批判があったようです。
しかしジョンシャーカフスキーはとりあえず、アンセル・アダムスやナン・ゴールディンやその他の作家をとりあえず分けたのです。
当時は理解されなかった分類だったのかもしれませんが、今ではわかりやすい分け方だと思います。
確かに写真家には、自分の中に中に入っていくタイプの人と、ひたすら外への興味で写真を撮る人がいますから。
PCのディスプレイは鏡と窓、両方の役割を果たすのかもしれません。
つまり、テレカンやオンラインで誰かとコミュニケーションをとっている時はそれは窓となり、今このようにブログなどを書いている時は鏡となるのかもしれません。(読者に向けて書いているという意味では、窓なのかもしれませんが)
なるほど、WindowsというOSは、そういうことだったのかと、今書いていて腑に落ちたところで、窓の写真をいくつか掲載して今回は終わりにしようと思います。
いつものようにライトルームのAI(アドビ先生)に過去の写真数万枚の中から windowというキーワードで選んでもらったのですが、僕はどうやらいたるところで窓を撮っていたようです。自分でも忘れていました。不思議なものです。








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