ライティングの哲学 書けない悩みのための執筆論を読んで

じゃあ、書きますか。

これまで何かしら書いてきた。今もこうやって書いているように、書くことを仕事にしているわけではないが、書くことが結果としてわずかな収益を生んでいる。収益を生めばそれは仕事と呼べそうな気もするが、写真関連の依頼原稿以外はほとんど趣味で書いている。じゃあなぜ書くのかと言われれば、楽しみのためだということになるのかもしれないが、苦しみもある。むしろ苦しみのほうが多い。書いて、公開して後悔する。ああ、またこのような稚拙な文章を偉そうに投稿してしまった。お前は誰だよって。トキマルタナカかよって。それでも書いてきた。このブログで500記事。ノートで200記事。ただのボヤキみたいなものから、アフィリエイト記事みたいなものから、全く役に立たない方法論まで。平均して毎回600から1600文字程度。合計すると105万字。ブログも何度か全消しして改修や乗り換えをしているし、公開されなかった文章もある。そういうものまで含めるならよくもまあそんな膨大な駄文を生産してきたなと思う。

書き始めたのは大学時代からで2007年頃。それまでも試験か何かで書くことはあったが、他人に読んでもらう事を意識して初めて書いたのはたぶんブログだった。

当時は何度目かのブログブームでもあった。音楽をやっていたロックな先輩たちが、ちまちまとブログを書いていて不思議に思った。何かの拍子にお前も書けよと進められてそのまま開設してしまった。部室やステージや飲み会ではロックな先輩たちが、今日はダメだったとか、おいしいもの食べたとか、このバンドが熱いというようなことを、ちまちまインターネットに書き付けていることがなんか新鮮で、違和感があり面白かった。どことなく輝いて見えた。リアルで会っている時は格好つけてるのに、家に帰ってブログへ向かう時は様々な問題や悩みを書き付けている。人間が見えた気がした。遠いのに近く感じた。それでどんどんブログの魅力に取り憑かれていった。

今書き続けられている理由がもうひとつある。これも学部の頃。あらゆる師匠であり文化人類学の先生である東氏に、文章を褒められたのだ。その時の状況はよく覚えていないが、多分ゼミに入るための面接で初めて研究室を訪れて、志望動機のような短い文章を提出した時だと思う。音楽にかぶれていて、ロン毛で少し茶髪でうす汚い格好でプリントを渡して、人気のゼミだから入れなかったら諦めようくらいに思っていたらそれを読んだ先生は文章うまいねと言ってくれた。お世辞なのか、かるい冗談なのか、ヤバイやつ入ってきたからとりあえず褒めておいて早く帰ってもらおうという作戦だったのかはわからないが、自分の文章を褒められた経験なんてそれまで無かったのでとても嬉しかった。それで書いてもいいんだという許しを得た気がしたというか、書いてみようと思った。大きな勇気をもらったし、今でもそれが書く原動力のひとつになってるようなところはある。

さて、少し昔話が長くなってしまったけれど今回の千葉雅也・山内朋樹・読書猿・瀬下翔太の「ライティングの哲学」は、そのような自身の書くことについての出発点をゆるやかに思い出させてくれた。職業的な書き手である4名が、ここまで悩み、苦しんでいるのだから、素人の僕が苦しむのは当たり前なんだという安心を得た。そして書くことの苦しみや、悩みを少し軽減してくれるような本になっている。

以下、ネタバレしない程度に感想を記します。

座談会から始まり、千葉さんが司会的な立ち回りをしていて個性的な4人の場を回すのが上手だった。もっと文章は飛躍しても、ぼつぼつしていてもいいんだと思えた。

クリエイティヴィティの発揮は自動生成のプロセスであり、人間の主体が自分の思いを表現とかではなく、自分の中に他者としての機械が自動的に動き始めて、何かできてしまう。すなわち、アウトライナーによって思考を脱主体化すること。これは僕にも似たような経験があって、例えば映像や写真を制作する時に、まず映像を撮ることから始めるのではなく、とりあえず文章を書く。文章を書こうとしてそれに沿う動画が必要になり、撮影を始めたら映像のほうができてしまったという場合。こういうことがたまに起きる。

実践編ではお題を出された4人が、どう書くか対決みたいになっていて面白い。しかし4人同士で戦うわけではなく、それぞれの書けなさを持ち寄って、自分自身と戦っている様子なのだ。

座談会→課題執筆→座談会という構成になってるのもいい。いままでこのような本があっただろうか?3年という期間を経て同じメンバーで集まれるのもすごいし。3年あれば書き方も変わる。だから3年置く必要があったのだろう。そういうのが書籍のフォーマットとして功を奏しているように思える。

noteは書くことの練習になる。許しのある執筆環境。最近それに慣れて、他のツールで書く時も一時下げをしないで一行アキで文章を書いている。連ツイみたいな感覚でかける楽さがある、と千葉さんは言う。僕の場合、これはワードプレスのブロックエディタにそのまま当てはまる。過去の文章を読み直してみると、ブログサービスを使っている時は一字下げをしていた。ところが、ワードプレスになってからは一行アキの形式で書いている。これは自分でも気づかなかった。書く道具と環境が、文章にも影響を及ぼす。

2回目の座談会まで通して読んだ後、もう一度それぞれの原稿に戻るという読み方も新たな気づきを与えてくれるかもしれない。

何かしら文章を書いている人、またはこれから何か書こうと思っている人にはオススメの本です。

ライティングの哲学 書けない悩みのための執筆論

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たったひとつのカメラ

Just one Leica

最近はライカ1台と50mmレンズ一本で、写真している。

これまで多くの機材やカメラを使ってきたけれど、保管庫もカメラバッグもすべて処分してしまった。残ったものは一台のライカだけで、それは常に作業デスクの上が定位置で、首からぶら下げたりして持ち歩いている。

依頼された仕事でも使えれば使い、日常の記録も、パーソナルなプロジェクトも全てこれ一台で行っている。

哲学者の千葉雅也さんが、有限化について述べている。

喫茶店にいくと、そこに永遠にいるわけにはいかない。いつかはお店を出なければならないという制限がかかる。その中で一定のタスクを仕上げなきゃいけないという暗黙の圧によって作業が進むんです。喫茶店に行くというだけで、すごく大きな意味でポモドーロテクニックが起動する。

千葉雅也 – 書くための名前のない技術

カフェで作業や物書きをすると、なぜか捗るという経験は、小説家でなくてもあるだろう。カフェに永遠にいることはできない。店はいつか閉まるし、座りすぎてお尻が痛くなることもあるし、お腹がすいてラーメンを食べたくなる時だってある。そのような制限が強制的に働くおかげで、作業に集中することができる。

カメラを一つしか所有しないことも有限化だ。

写真を始めたばかりの人が、多機能なカメラや、多くのレンズ(ズームレンズも)を最初から使うと、どれをどのように使えばよいのか、使い方に迷うことがある。使い方に迷っているうちに、撮りたい瞬間を逃したり、条件下で最適なパフォーマンスを発揮できなくなる。

ただ押すだけで良い”写ルンです”は有限化の極地だ。何も考えずただ押せば良いので、そのぶん瞬間や被写体に集中できる。

カメラとレンズが1つしかないと、様々な段階で迷いがなくなる。依頼された仕事もそれ一台でどのように取り組むべきかを考え、あとは光と環境と状況を読むことに集中できる。

写真は選択で成り立っている。被写体を選んで、カメラを選んで、レンズを選んで、焦点距離を選んで、絞りやシャッタースピードを選んで、ピント位置を選んで、構図を選んで、タイミングを選んで、一枚が撮影される。撮影された後の編集のプロセスも、無限の選択可能性に満ちている。(ソフトは、パラメータは、トリミングは…)最も重要なセレクトは、選択そのものだ。

一台のカメラを使うことは、それらの選択を含めて有限化することである。

ライカを選んだ理由はnoteに余地を残しておくとして、ここでは一つ、”小さいこと”を上げておこう。

一日は無数の瞬間で成り立っている。この瞬間のほとんどはすぐに忘れ去られるが、稀に永遠に記憶されるようなタイミングが訪れることがある。どの瞬間が残るのかは、後にならないとわからない。だから常にカメラを持ち歩く必要がある。

小さくてどこへでも持ち歩けると、まだ見知らぬ人や景色に出会う機会が多くなる。ただ人生を記録するだけでなく、カメラを介して人と出会うことで人生は豊かになる。

コンパクトで耐久性があり、よく写るカメラが一台あれば、他には何もいらない。

あとは「いつでもどこでも良い写真が撮れるはずだ」という気分と、ハンドクリームくらいあればいい。