自分の影を撮ることについて

こんにちは、常丸です。

カメラを手にした事がある人なら、誰でも一度は自分の影を撮影した経験があるだろう。

写真はあらゆるメディアに利用されるその特性上、蓋を開けられる前から、「おしゃれ」や「かっこいい」というイメージがつきまとう。

そしてそのイメージを持ったまま、カメラを手にし、いざ写真を始めようとすると、お洒落でカッコイイものを撮影しようとあちこちを駆け回る。

その結果としての「自分の影」の写真というわけである。

これはナルシシズムの極みで、影、そんな俺、かっこいい、という初心者によって撮られた、初心者にありがちな写真なのである。

ところが最近、これまた自分の写真を見て、まるで初心者だな。と思いながら、同時に、なぜこんな写真を撮ってしまったのだろうと考え、立ち止まってしまった。

snap-photo
Shibuya 2017 ©tokimaru

写真の上がりを家で見て気がづいたのは、”この時僕は自分の影を撮ろうとしたわけではなかった”ということだった。

4、5日程前の事だし、二時間歩いて何十枚か撮った中の一枚であるから、その時どうしてその写真が撮られたかは、もう既に正確には覚えていない。

森山大道さんの言葉を借りるなら「現実の間に見え隠れするスリット」の中に、入った瞬間だったのかもしれない。

撮ろうとしたのはおそらく草か、ブルーのフェンス。それも日中の太陽に容赦なく醸される、草か、ブルーのフェンス。

そしてたまたまそこには、自分の影が入っていた。

思えば、「自分の影」はあらゆる著名な写真家の作品の中にも多数存在する。

ロバート・フランク、荒木経惟、森山大道、リー・フリードランダー、深瀬昌久、ジョセフ・クーデルカ。

(深瀬さんと、クーデルカの場合は自らの身体の一部をフレームに入れるという絵で知られることが多いが)

そしてクーデルカが「一人で旅をしていて、撮るものが無い時、とりあえず自分はいるだろう」というような事を言っていたことを思い出した。

そういう意味では、僕の”意識せずに写り込んでしまった影”とは意味合いは異なってしまうが、逆に自分しかその場にいないという孤独さが写真にそのまま現れた結果とも言える。

写真を撮ることは孤独であることだ。

ファインダーは1つしか無いし、撮影者は自らの写真に写れない。そして、スナップは誰かと一緒ではとても撮りづらい。

二重の意味で孤独なのだ。

逆にファインダーが二つあって、一緒に誰かと覗きながら、同じタイミングでレリーズしなければシャッターの切れないカメラがあるとしたら、どうだろう。

それはそれで、面白い事になるかもしれない。

一方”誰かと一緒”というのは、それぞれ別々のカメラを持ち、異なる視点から撮影したものを、ユニットとしてひとつの作品として発表するということが既に行われている。

話はそれたが、「自分の影」の写真に”初心者にありがちだ”と思うような既視感を抱くのは、上記した写真家たちが歴史的に引用してきたコードのひとつであるからというのは納得がいく。

いや、むしろ、ナルシシズムの極みであり、影、そんな俺かっこいいというのは、ベテランの撮影者も忘れてはならないことなのではないだろうか。

偉大な作家たちの影の写真が現在も残っているのは、幾つになっても写真を始めた頃の初心を忘れず、子供のようにワクワクして撮ってきたからではないだろうか。

今日も、初心を忘れずに行きましょう。

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