写真とNFTの純情な関係性

朝7時くらいに起きて、ベッドの中でしばらく本を読んで8時くらいから仕事を始めた。今日はセレクトとNFTプロジェクトの立ち上げが中心。いまさら感はあるけれど、ようやくOpen Seaにコレクションを投稿した。第一弾はセルフポートレートのシリーズ

写真をNFT化するのは流行っているということもあり抵抗があって、ずっと躊躇していた。ネットで情報を得たり、その界隈に詳しい人の話しを聞いているうちに(なぜか友人のフォトグラファーにはクリプトやNFTにすごくはまっている人たちがいる)、自分がこれまでやってきたテーマと連動する部分があると思うようになった。それはまず森山大道的な態度であり、写真は現実のコピーであるという原則から出発する。現実を複写したものが人間の経済活動と結びつくかたちで世の中に流通するさまざまなモノに更に複写されながら、ロラン・バルトの言うアウラは消失する。記録と即時性のメディアである写真はデジタルになることで暴力的なまでの視覚的擦過を獲得した。ゴミのような写真が溢れる中で、自分が撮り、残した写真もまたゴミのようなものであるという意識は、ネガフィルムの衰退によってますます強化された。

しかしそのような“ゴミだけれど強力なもの”を日々相手にしながら、写真によって生計を立てるという板挟みの状況は逆説的にも活動を継続させることになった。デジタルになり複製と交換がますます容易になった写真を、撮影前からウェブ上に浮遊させ拡散させる意図をもって制作したのが「国分寺ラプソディ」だった。本来写真には肖像権はあっても著作権というものは無いのである。もっと正確に言うと、まずクリエイティブを立案する人がいて、昨今の現場の撮影者というのはカメラオペレーターであり、著作の権利を有するに値しない。

現実のコピーであり、ゼロからの制作物になり得ない写真(だからメディウム自体に手を加えるという横田大輔等のポストモダン表現は、これにオルタナティブな解を与えるものであるが)に非代替性をもたせるのは、アイロニカルで現代美術的な態度だと思った。写真は本来的に性質的にFungible=代替可能、交換可能なものである。そのようなただのJPGファイルが、ブロックチェーン上にメタデータをロックされた状態で非代替的なものとして刻まれる時、写真表現は横田たちとは別のしかたで、また新たな場所へと向かうのかもしれない。今はそういう期待がある。

NTFを触るにはどうしてもイーサリアムのプラットフォームを触る必要があるので、そのあたりの作業を同時並行でしていたら気づけば暗くなっていた。全く写真を撮っていなかったのでこの日記のために外に出て写真を撮った。

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