床に落ちた柿の種と無意識

ワークデスクの裏に落とした柿ピーを掃除できた時にはもう一日が終わった気分になっていた。いやそのようにして実際に僕の一日は終わったのだと思う。いつ落とした柿ピーかは忘れてしまった。ここできちんと描写するならそれは正確には柿の種のほうである。それも柿の種のかたちは保っておらず、少し齧ってただのスナックのカスのように見えた。ある日の夕暮れに柿ピーを食べている時に、そのかけらを落としたのだ。落としたことは覚えている。目で追って、一度床に当たったと思ったら、跳ねてワークデスクの裏側へ転がっていった。しゃがみ込んで手を伸ばせば届く位置にあったので、それを直ぐに拾って捨てることもできた。しかし僕はその時はそうしなかった。なぜかしたくなかったのだ。半端な柿ピーをそのままワークデスクの裏側に放置したままにした。部屋の中を移動するたび、柿の種がチラチラと見えた。部屋で仕事をする時、その柿の種のかけらは間違いなく僕の無意識に作用した。実際に何かアイデアとして表出することはなかったが、何かのしこりのように、ずっとそれが頭の片隅にあった。視界に入るということは認識の範疇にあるということである。話は全く変わるけれど、背面液晶を使って写真を撮るよりもファインダーを覗く方が四角まで見られるのは、ファインダーの中という視界の限界が生まれるからだろう。背面液晶を見ている時は、写真の四角に加えてカメラの躯体含めた全体、そしてその周りにある景色やモノを見ている。見えるものが多すぎるのだ。だから四角を良く見るために、カメラのファインダーを覗く必要がある。