孤独と孤立に対する諦観は

7月27日、水曜日。晴れ。福岡にいる。博多駅までの移動中、安倍首相銃殺の批評記事を読んだ。ホアキンフェニックス主演の映画「ジョーカー」に犯人が自身を少なからず被せてツイートなどしていて、その裏には何処にも拠り所の無い圧倒的な孤独と孤立があったというような考察が書かれていた。その記事と同時に2008年の秋葉原で無差別テロを起こした犯人の死刑執行が決まったとの記事も読んだ。そこで原因として考察されているのもまた孤独だった。後者はインターネットというファクターが強調されながらも、根底にある原因はやはり孤独と孤立だ。審判が下されるまでに14年もかかったことは意味がわからない。もちろん被害者の数が多ければ多いほど判決までに時間がかかるのはわかるが、14年だ。この間にどれほどの人が苦しみ続けたのか考えるととても胸が痛い。スマホから通り過ぎる窓の外の風景に目をやると、ふと、自分も孤独だなと思った。家に帰ってみてももう自分の家という感じがしない。18歳までの多感で多汗な時期を過ごしたのは間違いなくて場所や人に様々な記憶が結びついている。しかし、言葉も風習も全く別の星の事ように思える。たぶん東京に長く居過ぎたのだ。とはいえ、東京が自分の場所かというとそれもまた違う気がする。もちろん大自然から移動して品川駅の混雑に揉まれたり、渋谷のマンションに帰ってきたりすると不思議と落ち着く。東京の友人たちと会うとホッとする。しかしどこにも自分の居場所はない。だがそれがパートナーはいるにしても一人で生きていくということであり、歳をとることだと思えるようになった。ただ、その孤独や孤立に対する諦観が良いことかどうかは正直わからない。

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