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Essay

What I eat everyday

日々食べているもの

何を持つかと同じように、何を食べるかは、そのひとの人となりや、文化圏が現れやすい指標だと思います。しばらくシンプルな生活をしてきて、持ち物が少なくなれば、必ずしも食事がシンプルになるというわけではないということがわかりました。

食事の楽しみというのは、その複雑性に備わることが多く、例えば牡蠣やカエルをまるごと食べたときの海や大地を味わうような感覚や、客単価3万くらいのフレンチで出されたソースや調理方法に凝りに凝った一皿を味わう瞬間。複雑性が身体的な悦びにつながることは、20数年も生きていればなんとなく体感するのではないかと思います。

そして食事のシンプリシティにおける贅沢さを身をもって享受できるのは、身体的な老化のおかげではないかと考えています。ポジティブに言うならそれは”成熟”と言えるかもしれません。脂っこいものや、味の濃いものよりも、あっさりとしていてシンプルなものを好むようになるのは、そういう濃度の食物を、身体が処理しきれなくなる時期が来るからです。

人はそれを(時に、とても簡単に)アラサーと呼びます。そして語尾がフォー、フィフ、シクと活用段階が上がるにつれ、シンプリシティが重視されるようになるという話です。

食事は基本的に、持ち物と同じように、自分が最も心地よいものを選べば良いと思っています。

カップ麺が好きで、食べれば食べるほど健康になり気分もアガるのなら、カップ麺を食べ続ければ良いし、体がライチしか受け付けないのならひたすらライチを食べればいい。食事は栄養を摂取する以外に、コミュニケーションであり、コンテクストであり、悦びであるのです。食べる理由と食べる自由を混同してはいけません。私たちは、誰にも何も指しずされず、本来好きなものを好きな時に食べるべきなのです。

ここで言う食のコンテクストというのは、食事環境や食事状況を意味します。

ベタにくだけて言うと、警察署で出されるカツ丼とか、可愛い女の子の好物が家系ラーメンだったりとか、パーティーや葬式に出される食事とか、ようやくありつけて泣きながらほうばる”どうぶつビスケット”などがそれにあたります。

とにかく、衣食住と言われるように、私たちの生活に無くてはならないもの。そして少し意識すれば、大きな悦びに代えることができるもの。それが日々の食事だと考えています。

そんなことを考えながら、僕は日々なにを食べているのか。結構決まったものを退屈に食べていることが多いです。上に載っているような朝食とか、忙しい朝は野菜ジュースのみとか。昼は麺類を食べることが多いです。夜はお酒とおつまみ。その後友人たちと中華で”締め”たりしてよく怒られています。夜中の12時に皿エビ雲呑と、湯麵と餃子、さらに半チャーハンも頼んだりします。

飲まない日は家で、味噌と玄米を食べたりもします。
「いや、それ戦時中?」
と突っ込まれますが、僕は至って冷静に、「いいえ、令和です」と答えます。

玄米を味噌で食べると本当に美味しいんです。玄米は炊飯器ではなくて、飯盒でガスで炊くとさらに美味しさが増します。あとは胡瓜でもあれば完璧です。

人類の歴史は、戦争の歴史と言われるくらいに、日々至るところで殺戮が行われ過酷な季節を過ごしてきました。しかし私たちの祖先もどんなに酷いコンテクストの中でも、生きるために食事をしてきました。そこには死を含んだかすかな悦びがあったのではないかと想像します。生きることは食べることで、食べることは同時に死に近づくことでもあるからです。

食べれることに、いまここで感謝します。